礼拝説教要旨(2017.7.30)
互いにいたわり合うため
(コリント第一 12:12〜27)

 この5月、6月、7月と、教会はこの世でどのように歩むのか、その時、聖霊なる神はどのように私たちを導いてくれるのか、すなわち、イエス・キリストの福音が、一体どのように宣べ伝えられて行くのか、いろいろな視点から教えられて来た。特に、今、新会堂の建設という、尊い「主の御業」を経験しながら気づかされること、学ぶことなど、多くあることを学ばされている。7月は福音宣教の業と会堂建設の業には、切っても切れない側面があり、宣教の業の前進を願いながら、教会はどのようなものなのか、パウロの教えに目を留めて来た。今朝は、先週の続きのようであるが、やはり、パウロが語ったこと、「キリストのからだである教会」について、もう一度触れてみたい。キリストの教会には、実に様々な人が招き入れられていて、それぞれが分に応じて役割を果たしていると、頭では理解しても、なかなか心の底から理解するのは、私たちはもちろん、初代教会においても難しいことだったようである。

1、パウロがコリントの教会の聖徒たちに教えようとしたのは、何としても十字架のキリストのみを信じて、この方にのみ従うように・・・ということであった。信仰に導かれる人の数は、パウロが思った以上に多く、教会の成長は目覚ましかったと思われる。一年半の滞在の間に、パウロたちはユダヤ人たちの反対が激しくなって、町を去ることになる。ところが、パウロがいなくなってから、教会は混乱に陥り、教会内には対立や分派が見られるようになった。パウロの心はどんなにか痛んだことであろう。コリントの町は、当時、物質的にはとても栄えていた。教会にはいろいろな階層の人々が集い、豊かな人もいれば、かなり貧しい人もいるという、都会的な群れになっていたと言われる。多様な層の人々が、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」と分派を形成して、「私はキリストに」と言い張る人々もいた。だからこそパウロは、キリストにある「一致と交わり」を説き、教会の土台はキリストであることを、懸命に語るのである。「キリストのからだである教会」を理解し、分裂でなく一致を、対立でなく交わりを喜ぶ教会となるように・・・と。

2、コリントの教会には、きっと有能な人や元気に溢れた人もいたに違いない。反対にこの世では目立たない人や、立場の弱い人もいたようである。そのことを踏まえて、御霊の賜物は多種多様であると言う。「働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」(12:6-7)「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。(12節)「確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。」(14節)「もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。」(17〜18節)各器官は、それぞれ働きが違うこと、神が、人のからだをそのように造られたのであって、「器官は多くありますが、からだは一つなのです」という事実が肝心なのである。しかも「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないのです。」と言う。(22節)

3、「私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官をことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが・・・」と言うが、一体何を指しているのだろうか。恐らく衣服で覆う部分と、そうでない部分のあることに触れていると思われる。部分部分で、それぞれ役割が違い、扱われ方も違って来ることを覚え、「神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださった」ことに目を向けさせている。(23〜24節)そして「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです」と言う。(25節)教会の中での一致と交わりにおいて、カギとなるのは「互いにいたわり合う」ことにあり、他の部分の弱さを思いやり、いたわり、支えることができるかである。分り易いわりに、行い難いことである。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(26〜27節)「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」の教えと同じである。(ローマ12:15) 難しいまま、そこで止まっていてはならない。ヒントは、主イエスの教え、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。・・・」にある。(マタイ5:3以下)神の前に、自分こそが助けが必要であり、弱さの中に沈んでいることを、本当に知っているか、絶望しているか・・・にある。キリストにあって罪赦され、滅びからいのちに移されていることを、大喜びしているなら、私たちは「互いにいたわり合うため」にこそ、私たちは生かされていることを知るようになる。

<結び> キリストの教会にとって、一致を見失って分裂することほど恐ろしく、また悲しいことはない。キリストを見上げての一致と交わりを失うなら、それはもう教会とは言えない。コリントの教会がそうなってしまわないように、パウロは祈りを込めて手紙を書いていた。ところが、その後の教会の歴史には、残念ながら分裂があり、対立があり、多くの痛みがつきまとっている。わずか百年余りの日本のプロテスタント教会の歴史においても、分裂や分派は避けられないままである。教会に分裂はつきもの、神は分裂さえも益として下さる・・・という考え方もある。けれども、私たちは、キリストの福音を真心から信じて、この福音に生きる者とならせていただきたいと、心から願う。教会は「キリストのからだ」であり、一人一人はその器官、からだの一部分であることを覚えたい。弱さを認め合い、覚え合い、「からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです」と言われていることを心に刻んで、キリストにあって成長し、完成を目指したい。目に見える会堂が出来上がるのを待ちながら、霊の家としての教会が建て上げられることを喜べるように。また自分自身の信仰の成長を遂げられるように祈りたいものである。