礼拝説教要旨(2017.7.23)
しっかりと組み合わされト
(エペソ 4:16)

 今年の5月第一週、「日本長老教会設立記念礼拝」とともに「新会堂建設起工感謝礼拝」をささげた。「愛のうちに建てられる教会」との説教題にて、エペソ4章11〜16節の御言葉に耳を傾けた。使徒パウロは、エペソの町の聖徒たちに、キリストの教会の一致と交わりについて、心を込めて語っていた。主イエスを信じる信仰に導かれた人たちに、その信仰に生きるようにと励ましている。主イエスをキリストと信じる信仰は、生きて働くものである。生きている限りは成長を伴うものであり、完成を目指すものであること、ゴールはかしらなるキリストご自身であることなど、キリストの教会は、愛のうちにしっかりと建てられて行くもの、とパウロは聖徒たちに教えていた。今朝は、その教えの中の16節に絞って、パウロを通して、キリストご自身が教えようとされたことに、もう一度目を留めてみたい。教会の一致と交わりがどれ程に尊いもので、一人一人の存在を、主ご自身が喜んで下さっていることを覚えたい。

1、パウロが、キリストの教会を「からだ」と表現したり、また「建物」「宮」と表現したりするのは、生きて働く教会をどのように言い表すのか、どのように言えば分ってもらえるのか、いろいろ考えてのことである。制止している教会でなく、有機体として、生き生きと躍動している教会を思い描いたのであろう。「からだ」と言う時には、様々な部分から成る人間の「からだ」の不思議を思い巡らし、「建物」と言う時は、完成したものより、建て上げられる過程の「建物」を思い描いたものと思われる。キリストを信じる者の群れが、この地上にあって歩むのは、いずれも完成を目指す歩みであり、大切なことは「一致と交わり」である。それは、「成長」と「完成」を目指すところの「一致と交わり」である。私たちはともすると、画一化された「一致」を求めてしまうが、神が私たち人間を造られた時、人間には多様性を持たせておられた。三位一体の神のかたちとして造られたこと、また、人を男と女とに造られたことにある。教会には、いろいろな人が導かれ、様々な賜物が生かされ、用いられて、キリストのからだが建て上げられるのであって、「多様性」が尊ばれる「一致と交わり」を覚えることが大事となる。

2、パウロが「キリストのからだ」と言い、また「建物」と言う教会が、そこに連なる聖徒たちによって、どのように支えられているのか、16節は、そのことに触れている。「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」他の個所も含めて、パウロの教えには、「からだ」でイメージできる事柄と、「建物」でイメージできる事柄が入り混じっている。けれども、いずれも「成長」や「完成」を目指しているのは明白である。そこに至るに当って、からだに属する一人一人が、「その力量にふさわしく働く力により」、分を果たしていることを認めている。また、それぞれが分離し、独立して存在しているのでなく、「備えられたあらゆる結び目によって」、互いに関係し合う事実のあることに触れる。その上で、「しっかりと組み合わされ、結び合わされ」と言う。私たちは、キリストの教会に属している者として、具体的には「所沢聖書教会」の一員として、力量にふさわしく、自分の分を果たしているのか、自分の周りにいる人と、備えられたあらゆる結び目によって結ばれているのか、丁寧に問うことが大事となる。しっかりと組み合わされているかどうか、結び合わされているかどうか・・・である。単独では存在し得ない、という事実を覚えなければならない。

3、実際には、なかなか具体的に検証するのは難しい。教会の一致と交わりは、目に見えることより、目に見えないことがほとんどで、正しく霊的な意味での「教会の一致と交わり」だからである。けれども、その難しさを乗り越えさせてくれるものとして、現実の会堂建設の業があることに気づかされる。今回の「新会堂建設」は、「木造」にて行われている。現会堂は「軽量鉄骨造り」である。いずれも、各部分が「しっかりと組み合わされ、結び合わされ」ていることに驚く。けれども、組み合わされた部分、また、結び合わされた部分のほとんどは、完成すると見えなくなる。すなわち、見えなくても、肝心な部分があって、建物の全体が支えられている。目に見えない部分の尊さを見失わないようにすること、教会とは、そのようなものとの認識を、改めて持ちたいと願う。但し、今回の会堂は、礼拝堂部分では、組まれた三角の梁(トラス構造の梁)の部分が、目に見える形で残る構造となっている。そのようにしようと考えたわけでなく、設計して下さった方や、建設会社の方が提示して下さったものを良しとし、工事が進められている。私たちは、この会堂建設を「主の御業」として喜び、感謝して受け止めている。会堂の天井を見上げる度に、私たちは、キリストにあって、「しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです」との、大切な教えを思い出すように導かれることと思う。教会は、「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、・・・」と言われているのである。

<結び> しかし、また私たちは、自分中心にのみ物事を考え易いのも事実である。教会は「キリストのからだ」と考える時、パウロが教えているもう一つのことも覚えたい。「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」(コリント第一12:22)力量に応じて分を果たすとしても、その力量については、勝手な思い込みをすることのないよう注意が必要である。きっと、私たち人間の目には、全く無力と見えても、神の目には、存在そのものが尊い人が、現実に大勢いることの事実を、はっきりと知ることができるように。それは自分自身のことかも知れない。私たちは、時に自分で自分を卑下してしまい、それでいて、かえって傲慢になっていることがある・・・と言われる。神の目には、私たちの存在そのものが尊く、何ができる、できないとは無関係に、神が、私たちを愛して下さり、私たちが、神に従うのを喜んで下さるのである。そんな一人一人がキリストの教会に導かれ、それぞれが大事な存在とされている。しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられることを喜びたい。教会の成長と完成は、まだまだずっと先でも、成長し続け、完成を待ち望んで歩ませていただきたい。