私たちの教会は、今年の5月第三週に「教会設立38周年記念礼拝」をささげた。その時、教会創立から数えるなら、恐らく「59周年」となることを覚えた。正確さにはやや欠けるが、1945年8月15日を境にした日本におけるプロテスタント教会の歩みの中で、戦後のキリスト教ブームに乗って、多くの外国人宣教師が福音宣教の業を推し進めた一貫として、私たちの教会も歩み始めていた。日本長老教会の多くの教会がそうであり、所沢聖書教会も同じく、ほとんどゼロからの開拓伝道が、そのスタートである。目に見える拠り所はなく、宣教のスピリッツでは負けない・・・、そんな歩みであったと想像できる。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1:18)と、このみことばを頼りにしていたに違いない。
1、その教会が、「目に見える教会」として、この地で宣教活動を続けながら、制度として、また組織として、「教会」を意識し始めたのは、1969年4月から、ソルトー宣教師に導かれることになってからである。1958年、最初にジョージ・ベネット宣教師によって種をまかれ、1968年の4月から一年間、横山幹雄師に導かれ、その次の一年、目に見える形で「教会形成」が意識されるようになり、星の宮会館で主の日の公的礼拝が行われたのである。子どもたちのための日曜学校は、それ以前から始められていて、それに礼拝が加わり、その場所で、今井栄司兄と美枝子姉の洗礼式が行われた。そして、翌1970年は再び横山師が牧師として奉仕し、次の年に柳が伝道師として招かれ、教会はどこに所属するのかを探り始め、1975年2月に長老教会の一員となった。イエス・キリストをかしらとする教会は一つであり、その教会の地上での現れとして、所沢聖書教会の拠って立つ位置を明確にしたのである。その時から、福音宣教の一翼を担うにあたり、牧師と長老によって治められる教会を祈り求めることになった。(※教会員は10名、現住陪餐会員9名の時である。)
2、その頃から、次第に明確になって行ったのが、会堂建設の願いである。私たちの教会で「長老」という時、それは「男子会員の中から選ぶ」という決まりがあり、牧師の他に長老2名が最低条件である。当時の役員会では、何とか3名の長老を願い、その願いに加えて会堂を・・・と、祈り始めた。祈り始めた時、主ご自身からの答は、驚くほどに明確で、しかも即座と言う程に速やかであった。内池智二郎兄と牧野成史兄の洗礼が導かれ、稲葉裕兄と信代姉の転入会が導かれ、他にも男女の受洗者が導かれた。最初からの会員である山口庄一兄の他に、男子会員が4名以上となった。もちろん、男子が3名以上だからと自動的に長老選出ということでなく、備えの時が必要と理解した。他方、会堂建設のことが、いよいよ明確となって、候補地が複数示され、現在地を購入するかしないかを問う、臨時総会開催となったのが1977年7月24日である。40年前の今頃、買うのか買わないのか、一体どうするのか、とにかく総会の決議待ちの日々を過ごしていた。その前年の4月に会堂建設準備委員会ができ、5月16日の礼拝説教が「主、家を建てたもうにあらずば」であった。そのように祈り始めて、一年余りの時、110坪、総額3000万円の土地購入が決議された。正しく「主の業」の具体的な始まりである。一同、ただただ主に従うこと、主が成して下さる業に、とにかく着いて行かねば・・・と、必死であった。(※現住陪餐会員14名、会堂献金積立額234万円/6月末の時)
3、思い出すと、よくぞ決断したものと驚く。決断させていただいた!!としか言いようがない。その「第一期会堂建設」が成り、同年に「第二期会堂建設」にまで進み、次の年に「教会設立」を導かれ、2001年に「第三期」としての「隣地および牧師館取得」が実現し、今や「第四期会堂建設」となる「新会堂建設」が進められている。この時にしっかり覚えたいのは、「第二期会堂建設起工感謝礼拝」(1978年9月10日)で覚えたこと、「土台はイエス・キリスト」という教えである。(10〜12節)私たちの教会の会堂建設において、1976年当初、導かれた五ヶ年計画は、100坪の土地に100名以上収容可能な会堂が、1981年3月末に完成しているというものであった。礼拝堂スペース14坪の現会堂が、100名以上収容と言えないのは自明であった。けれども「主のみ業である」ことはいささかも揺るがず、主がこの会堂を備えて下さることを大喜びした。また、私たちの教会の「土台はイエス・キリスト」という事実を、はっきりと確認した。キリストの教会の拠って立つところは、イエス・キリストである。今日、改めて、十字架で死なれ、その死からよみがえられたキリストが、私たちの信仰の土台、根幹であることを覚えたい。どんなことがあっても、この事実を、今後も決して忘れないでいたい。土台はキリストと覚えることによって、その土台の上に建て上げられる建物が、どのように建て上げられて行くのかを、いつも検証することができるからである。(13〜17節)
<結び> これは私たち一人一人の課題であり、同時に、一つの群れとしての教会の課題である。一人一人が、しっかりとキリストに根差した信仰に立っているのか、また、教会がキリストに拠って立っているのか、そのことが問われている。それはまた、どのような風に、成長する歩みをしているのか、そのことも問われる。およそ39年前に、「土台はキリスト」と、みことばに耳を傾けた私たちである。その土台の上に、どのような建物を、どんな材質で建て上げてきたのだろうか。終わりの日に焼けてなくなってしまうものなのか、しっかりと残るものなのか、私たち自身では何も言えない気がする。とにかく一人一人、キリストに根差した信仰の生涯を生き抜くことを祈り求めたい。群れとしての教会が、一人一人キリストに結びついて、互いに支え合い、助け合い、愛し合うことを求めながら、建物としての教会を建て上げることを喜びとしたい。キリストご自身が、私たちの教会の土台であることを心に刻んで!私たちがしっかりキリストに根差しているなら、宣教の業は必ず実を結ぶに違いない。主の御業を信じて、歩み続けることが導かれるように。
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