礼拝説教要旨(2017.7.09)
でもおことばどおり
 (ルカ5:1-11)

 ゲネサレ湖とは、ガリラヤ湖の事。そこでイエス様がお話をされていた時、大勢の群衆がイエス様に押し迫るように集まっていたが、シモン(のちのペテロ)はというと、そんな群衆からちょっと離れたところで商売道具の網を洗っていた。そんなシモンに、まずイエス様のほうから、舟を少し出してくれと声をかけられた。シモンは、実は徹夜明けであった。一晩中、舟でガリラヤ湖をあっちこっち移動し、何度も網を投げては重い網をたぐり寄せ、挙句、一匹もとれずじまい。疲労と落胆。しかし実は、それも神さまがこのあと起こることのために、そうされていたのかもしれない。祝福の前にはしばしば不毛の時期が用意されているもの。いずれにせよ、この時のシモンはまだ、明確なイエス様への信仰はなく、ただ頼まれて船を出しただけであろう。ところが、イエス様からお声をかけていただいたこの時から、彼の人生はまったく想像もできなかった生涯へと漕ぎ出すことになる。誰が、のちにこのシモンが使徒とされ、後世に至るまで、この21世紀まで大きな影響を与える事になると予想できただろう。すべては、この時、まだイエス様のお話を聞く群衆の中にすらいなかったシモンに、イエス様のほうから「ちょっと船を出してくれないか」とお声をかけられた時から始まった。私たちの神様は、神様のほうから声をかけて、関係を始めてくださるお方。そしてその関係は、さらに深まり、発展していく。
 お話が終わると、今度はイエス様はシモンに、深みにこぎ出して網をおろすよう、仰った。シモンは、イエス様のお言葉だから一応、やってみるかと従ってみた。おそらく、必ずとれる!と確信があった訳では全然なく、一応従ってみたという程度だろう。そんな小さなからし種ほどの「信仰」でも、とにかく、イエス様のお言葉通りに従ってみた。そしたら!シモンは目を疑うような光景を目の当たりにした。朝日を浴びてうろこを輝かせながら、網の中でピチピチとはねる、活きのいい魚が、あふれるばかりにとれて、二艘の船でも沈みそうなほどの、信じられないような大漁。とっさに、シモンは何か神聖なものを感じてイエス様の前にひれ伏した。
 イエス様は、ここでご自分の神としての力をシモンに体験させる事によって、彼にご自身をあらわされた。よく言われる事だが、聖書の「知る」という言葉は、単なる頭の知識ではなくて、経験してわかる事、という意味合いがある。この時も、イエス様は体験を通して、ご自身がどういう方か、ということを彼にあらわされた。その結果、シモンのイエス様に対する呼び方が5節では「先生」と言っていたのが8節では「主」と変わった。
 ところが、聖なる方の前に立つと、人は己の罪深さも感じるもの。シモンは思わず「私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と尻込みした。「離れてください」と離れようとするシモン。そこに、またまたイエス様の方から、お声をかけられる。「こわがらなくてよい。あなたは人間をとるようになる。」と、ご自分の弟子となるようにと言葉をかけた。その結果、シモンは何もかも捨てて、イエス様に従った。
 こうしてみてみると、徹頭徹尾、イエス様がイニシアティブを取っておられるのがわかる。イエス様が、まずシモンに声をかけ、イエス様がご自分の力をあらわされ、そしてシモンが「離れてください」と身を引こうとした時にも、イエス様のほうからそれを止められて、彼を弟子として召された。イエス様は、のちに弟子たちに向かって、「あなたがたがわたしを選んだのではありません、わたしがあなたがたを選んだのです。」(ヨハネ15:16)と仰った。それは、教会に連なる私たち一人一人にもあてはまる。選ばれて、召されて、イエス様に従う者とされた。
 シモンは、私たちと同じ、失敗もすれば、大失態をも演じてしまう普通の人。欠けだらけの器。しかし主は、最初からすべてをお見通しの上で召しておられる。主はシモンを、忍耐し、教え、訓練し、途中で見放すことはなかった。途中、失敗しても、いくら大失態を演じても、主の召しは変わらず、最後まで彼を離さなかった。シモン・ペテロが、主を否んだ時でさえも、主は、彼を否まなかった。私たちは不真実であっても、召した方のご真実は、変わることがなかった。
 さて、イニシアチブを取られるのは主。今日も、イエス様が私たちに対して、教会に対して、イニシアチブを取っておられ、物事を完成させて下さる。ならば、私たちに求められている事は何か?それは従順という事。
 5節「するとシモンが答えて言った。『先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもお言葉どおり、網をおろしてみましょう。』自分の経験、常識から判断したら、ダメだとは思うけど「でも、お言葉どおり」とやってみる。同じ事は前にさんざん、やってみたけど、だめでしたからやりません、ではなく「でも、イエス様が仰るなら、お言葉どおり」とやってみる従順。私たちは「お言葉どおり」というよりも「お言葉ですが、、、」というほうを言ってしまいたくなるかもしれない。イエス様が、こうしなさいと仰っても、お言葉ですが、、、と脇へ寄せ、蓋をしてしまう。イエス様に対して「お言葉ですが」は、自分の考えのほうを正しいとする言葉、「お言葉どおり」は、イエス様のほうを正しいとしている言葉と、言えるのではないだろうか。
 このからし種ほどの信仰が、やがて、11節「何もかも捨てて」の従順に導かれていく。「彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。」もしかしたら、冷静な判断ではなかったと、人は批判するかもしれない。たった今、目にした奇跡で、感動して、頭に血が上っていたのかもしれない。それでも、イエス様に従う決断をしたことは間違いではなかった。シモンのようなタイプは冷静に理屈でわからせようとしても動かないだろう。どちらが優れているというのでなく、人それぞれのタイプに応じてイエス様は導かれるのだと思う。とにもかくにも、シモンはイエス様のお言葉に、信仰をもって応答し、従った。彼の持てるいっさいを捨てて、という大きな犠牲を払って。その従順を、イエス様は決して失望させることはなかった。
 イエス様は、以後、数千年と続くキリスト教会の使徒として、普通の漁師さんを選んだ。特別な宗教的な教育を受けた祭司とかパリサイ人でなく、また当時非常に熱心に修道院生活みたいなのをしている人たちもいたが、そういう人たちでなく、普通に生活している漁師シモンを選ばれた。何が出来る、かにができる、という能力よりも、主が何よりも求めておられるのは、従順。「主は【主】の御声に聞き従うことほどに、 / 全焼のいけにえや、その他のいけにえを / 喜ばれるだろうか。 / 見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、 / 耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(第一サムエル15:22)
 イエス様が、舟を、と仰ったら、さっと舟を差し出す。教会の奉仕がこれにあてはまるだろうか。あるいはまた、身近な所で、たとえば、イエス様は「赦しなさい」と仰っておられる。それに対して「お言葉ですが」と遠慮したい気持ちをおさえて、「でも、お言葉どおり、やってみましょう。」と従ってみる。そんなことをしても、無駄だと思いますが、ーこれまでさんざんやってきましたが、ーでも、お言葉どおり、やってみましょう、と。するとその先に、この時のシモンのように、神聖な経験を恵まれて、キリストの神にましますことを経験させられるかもしれない。
 最後に、この時、イエス様のみ言葉に従って与えられた奇跡的な大漁は、のちに、ペテロが人をとる漁師となってからの収穫、働きの結果をあらわすとも言われる。今日、この教会にも、イエス様が御声をかけておられるその御声に、心から応じる者でありますように。その、信仰の従順を通して、御業がなされ、神の国が広がっていくことを願って。