日本長老教会では、毎年7月の第一週を「世界宣教週間」とし、全世界に福音を宣べ伝える働きのために祈り、また働き人を覚えて「宣教礼拝」をささげることになっている。日本長老教会の責任においては、未だ宣教師を遣わすに至っていないが、宣教師として海外に遣わされている方がおられ、またこれから遣わされようと準備しておられる方がいる。福音を直接語る働きがあり、また聖書翻訳の働きがあり、医療に従事しながら証しをする働きもある。世界には、直接的に伝道できる地域があり、それができない地域があり、実際に宣教の業は多岐に渡るようになっているからである。代々の教会は、何とかして主イエスが命じられたことを実行しようと心を砕き、また、私たちも、何とかして、多くの人々に福音を届けたいと願っている。そのような宣教の働きを覚えながら、今朝の御言葉に耳を傾けてみたい。
1、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(18節)パウロの宣教において、特にコリントの町では、「十字架のことば」こそが中心であったことを、私たちは繰り返し学んでいる。もちろん、「十字架のことば」には、十字架で死なれたイエス・キリストのみならず、その死から「よみがえられたキリスト」が含まれている。パウロが、何としても人々に伝えたいのは、キリストの十字架と復活であった。けれども、世の人々にとっては、キリストが十字架で死なれたというその十字架は、全く愚かなことであった。十字架刑に処せられたイエスがキリストであるなど、そんな馬鹿げたことはない・・・というわけである。パウロ自身が、ずっと思い込んでいたように、死人がよみがえるのは有り得ないこと、死人の復活を説くなど、とんでもない教えと、多くの人が見向きもしないのが「十字架のことば」である。人々は、何かもっと分り易いしるしを求め、自分たちを納得させてくれるものを求めた。「十字架のことば」は、当時の人々にとって、全く魅力的とは言えず、何とも地味なもの、そこに何かを見出すのは、ほとんど不可能なものなのであった。(19〜22節)
2、それでもパウロは、「十字架のことば」を語ろうとし、「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」ことに徹した。(23節)当時のユダヤ人と異邦人では、その興味の中心が違っていた。ユダヤ人たちの多くは奇跡的なしるしを要求し、他方異邦人は、奇跡よりも知恵を要求し、何かしら知的な関心を満たすことを求めた。パウロが十字架を語れば語るほど、人々は嘲り、そこから遠ざかった。けれども、パウロはひるまずに、十字架で死なれたイエスこそキリストであること、神が死からよみがえらされた方こそが、信ずべき方、神のキリストと語り続けた。こうして、「十字架のことば」を語り続ける内に、パウロ自身が、福音宣教の意味を悟った。神が人に与えようとしている救いは、人間の知恵や知識によるものではないこと、人が自分で「分かった!」というものでなく、神が提示して下さることを「信じる」こと、それが一番肝心なことである・・・と。「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(21節)人は、どうしても自分の知恵や知識に頼るものである。分るか分らないか、その基準は、自分自身である。しかし、神は、十字架のことばを聞いて、これを「信じる者を救おうと定められた。」
3、パウロは、十字架の出来事を語り、一人でも多くの人が信じるよう願った。また、誰一人として、信じた自分を誇ることのないように願った。少しでも油断すると、私たち人間は、自分を誇る誘惑に負けるからである。私たちが心すべきは、「キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」という真理である。私たちは、パウロに倣いながら、「十字架のことば」を宣べ伝えること、「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝え、この方こそが私たちの救い主であることを証しし続けたい。その時、この世の人々が願うことに、果たして、教会はどのように応えるのか考えさせられる。教会はこの世のニーズにどのように応えるのか、人々の求めているものとかけ離れたことをしているのでは・・・等々、自問させられる。けれども、そのことを思う余り、この世と調子を合わせる誘惑もまた忍び寄る。「十字架のことば」を歪めたり、救いの道を曖昧にしてしまうことが、キリスト教会の歴史において明らかである。中世のローマカトリック教会の誤りに対して、プロテスタント宗教改革があった事実、また日本や世界で、自由主義の神学が広がった事実が、その実例である。
<結び> 私たちは、「十字架のことば」を宣べ伝えることを尊び、人々の求めに合わせるのではなく、神が願っておられることに従いたい。「宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(21節)ここで言われる「宣教のことばの愚かさ」には、不思議な意味合いを感じる。「みことばを語り続ける」時、その「みことば」に耳を傾け、心を開く人々は、神ご自身が備えておられる神の民である。神が、ご自身の民をしっかり捉えて、神のみ傍へと引き寄せて下さる。十字架のことばは、そのようにして伝わるのである。私たちの教会は、そのようにして歩み続けることを導かれたいと思う。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」との確信を、一層固くされ、十字架と復活の出来事を証しする群れとして歩めるように祈りたい。
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