礼拝説教要旨(2017.6.25)
神の力に支えられる信仰
(コリント第一 2:1〜5)

 紀元一世紀のキリスト教会は、主イエスの十字架の死と死から三日目のよみがえり、四十日後の昇天、その十日後のペンテコステの日に起こった聖霊の降臨と、人間の常識では考えられない出来事を経験して、目覚ましい歩みを展開していた。ペテロを中心として、弟子たちは、真理の御霊である聖霊に導かれ、力を受けて、エルサレムから、ユダヤとサマリヤの全土へ、更に、当時のローマ帝国が支配する町々へと福音を届けた。その福音宣教の業に、後から加わったのがパウロである。彼は、最初、弟子たちの行動を苦々しく思い、迫害の先頭に立っていた。イエスの復活を信じられなかったからである。けれども、復活の主イエスにお会いして変えられ、その日を境に、彼もまた復活の主、キリストの証人となって歩み始めた。パウロ自身、自分で信じられたのではなく、御霊が働いて、信じる者と変えられる経験をしたからである。

1、パウロの変わりようは、それまで一緒に歩んだ人々の驚きとなり、またイエスを信じる弟子たちにとって、彼を受け入れるのは難しいなど、人間の常識で考えられないことであった。彼自身が、御霊の働きによって、イエスを信じる者とされたことを、よく理解していた。「神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」(コリント第一12:3)それゆえに、自分が語るにあたり、主イエスのことを人々に宣べ伝えるには、どのように語るのか、いかにして人々の心に福音を届けるのか、いつも心を砕き、最善を尽くそうとした。使徒の働きで学んだのは、ある時は旧約聖書から、またある時は天地創造からと、その時の聴衆を考えて語っていたことであった。心を開く人々だけでなく、反発する人々が多くいて、苦闘したのがコリントの町での経験と思われる。その経験を振り返ってパウロは手紙を書いていた。その町で実感したのは、正しく聖霊が働くことがなければ、誰も、イエスを信じることはない、信じることは決してできない、という事実である。

2、人々に理解してほしい、分ってもらいたい・・・と思えば思うほど、私たちは、自分の知恵を絞り、知識を駆使しようと思うものである。説得力のある言葉を探すなり、何とかしようとする。パウロもきっといろいろ経験したものと思われる。けれども、コリントの町では、「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」と言うように、御霊が働いて、聞く人々の心が開かれることを願った。「御霊と御力の現れ」を信じて、彼は語ったと言う。「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」(1〜4節)パウロがコリントにいた時、「私は、弱く、おののいていました」と言うが、その理由については、必ずしも明確ではない。健康の問題があったのか、他の理由があったのか・・・。コリントに行く前のアテネでの経験に、かなり気落ちしていたとも考えられている。だからこそ、十字架だけを語ろうとし、「すぐれたことば、すぐれた知恵」に頼らず、「御霊と御力の現れ」を期待したと思われる。人々がイエスをキリストと信じるのは、ただただ、御霊が働くことにより、神の御業が成ることだからである。

3、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1:18)更に「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(1:21)パウロは、十字架の出来事を語り、一人でも多くの人が信じるよう願いつつ、しかし、誰一人として、信じた自分を誇ることのないように願った。「それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」(5節)今日の私たちも、時に誤解することである。誰もが、「強い信仰」を願い、「迷いのない信仰」を持ちたいと願う。確たる信仰を持ちたいと願いながらも、自分の不信仰を思い知らされ、嘆くことが多い。けれども、大事なのは、私たちの信仰が、神ご自身の力に支えられることである。真理の御霊である聖霊によって導かれた信仰、すなわち、神が私たちに与えて下さった信仰なら、私たちは、自分の弱さや愚かさ、また自分の不信仰に、狼狽えることはいらないからである。パウロは、コリントの人々に、そのような意味で、確かな信仰を持ってほしいと願って、十字架の出来事、そして復活の出来事を語っていたのである。

<結び> 私たちは、主イエスをキリストと信じる信仰を持つように導かれ、こうして主の日に礼拝に集っている。私たちは、自分の確信に頼るのではなく、御霊に導かれて、イエスをキリストと信じる信仰が与えられたことを、心から感謝する者でありたい。聖霊なる神の導きに感謝し、一層、神に頼る信仰へと導かれたい。神に導かれ、また支えられることがなければ、私たちは、決して前に進むことはできないからである。今更のように思うことは、真理の御霊、聖霊が働くことがなかったなら、私たちは、決して主イエスを信じることはなかったという事実である。アダムにおいて神に背いて以来、全ての人が神に背き、罪と滅びの中に閉じ込められたのである。神が良しとされる善、すなわち、救いに至る善とは無縁となり、自分から神に向かうことなど、有り得ない存在となっている。教会が福音を伝えようとしても、人々の無関心や無反応は、全く当たり前のことである。少しでも心を開くとするなら、それは御霊が働いている証拠である。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことでからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(2:14)私たちが信仰に導かれたのは、実に、御霊の働きによることと感謝し、神の力に支えられる信仰が与えられていることを喜びたい。神の力こそ、私たちが依り頼むべきところだからである。(エペソ2:8)