礼拝説教要旨(2017.6.18)
御霊が話させてくださる
(ヨハネ 15:26〜27)

 今年は6月4日にペンテコステ礼拝をささげた。主イエスが約束された聖霊は、「五旬節:ペンテコステ」の日に、弟子たち一人一人の上に降り、その日を境にして、弟子たちは、イエスこそキリストと宣べ伝える「キリストの復活の証人」として、力強く歩み始めた。イエスは、十字架で死なれ、三日目によみがえられ、それから四十日後に天に昇って行かれた。ペンテコステの日は、その十日後である。弟子たちは、その日に何かが起こると、果たして考えていたのだろうか。約束を待つよう命じられ、その言葉に従って、祈りのために集まっていた彼らは、イスカリオテのユダに代わる使徒職を補充して、約束の実現を待った。そうして迎えた五旬節の日に、聖霊が一人一人の上にとどまった。「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒2:1-4)

1、その日に起ったのは、弟子たちが皆、口々に、いろいろな国の言葉でイエスがよみがえられた、聖書が預言した通りにキリストは復活されたと、力強く語り始める、一見、騒乱にも似た出来事であった。確かに人々が驚く物音が響き渡り、その音を聞きつけ、「大ぜいの人々が集まって来た。」弟子たちは、人々がよく聞けば分る、「それぞれ自分の国のことば」で話していた。エルサレムには、その日、敬虔なユダヤ人が、あらゆる国から移り住んでいただけでなく、巡礼のために訪れた人々が大勢いて、弟子たちが、いろいろな国の国語で話すのを聞いて、驚きあきれた。話の内容について、「神の大きなみわざ」と聞き分ける人がいた反面、何のことか分らず、あざける人たちもいた。人々には、いろいろな言語が入り混じるので、その物音は騒がしいだけとなったのであろう。ペテロをはじめとし、弟子たち自身、思いもよらない形であったが、イエスこそキリストであること、神がイエスをよみがえらせたことを語っていた。「御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」のであった。彼らは、何を話そうかと準備していたのでなく、御霊に導かれていた。それは、主イエスが約束しておられたことであった。(使徒2:5-36)

2、最後の晩餐の席で語られた、主イエスの教えの中心は、助け主なる聖霊を遣わすとの約束にあった。ご自分が天に昇られた後、父のもとから聖霊を遣わす。だから心配することはない。わたしがあなたがたとともにいたように、聖霊は必ず、あなたがたとともにいる。今、すべてのことが明らかでなくても、真理の御霊が来るなら、「・・・わたしがあなたがたに話したすべてのことを思いおこさせてくださいます」(ヨハネ14:26)と、言われていた。更に「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです」と約束された。(26〜27節)この言葉の通りのことが、五旬節の日に起こったのである。真理の御霊、すなわち聖霊が、イエスはキリストと証しして、弟子たち一人一人は、聖霊に用いられ、導かれ、促されて、イエスは十字架の死からよみがえられた、神がイエスをよみがえらせ、この方こそ信ずべき方、キリストであると語ったのである。彼らは、聖霊を注がれ、力を受けて語っていた。人々を恐れることなく語っている自分たちの姿に、彼ら自身が不思議な思いをしたであろう。それは正しく、助け主なる聖霊の業であった。(※使徒1:18)

3、こうした聖霊の御業は、その時から今日に至るまで、地の果てにまで続いている。イエス・キリストの福音を、全世界へと届けるよう命じられた神ご自身が、最初の弟子たちだけでなく、イエス・キリストを救い主と信じる私たち一人一人をも、キリストの復活の証人として歩ませて下さっている。私たちにとって大事なことは、聖霊の助けと導きは、私たちが気づいている以上に力強く、また確かと知ることである。主イエスが、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と、約束されたことは、聖霊を助け主として遣わし、私たちがどこにいたとしても、聖霊が私たちの内に住むことによって、確かに実現しているからである。私たちもキリストの復活の証人として、何かを語ろうとするなら、必ず聖霊が導き、助け、「御霊が話させてくださるとおりに」、話させていただくのである。一人一人の信徒が語るのも、また牧師が語るのも、主イエスを証しする言葉は、御霊の導きがあって語らせていただくことである。それなくしては、誰もキリストの証人になることはない。何よりも、信仰を言い表す時、聖霊の導きなしに、誰も「イエスは主です」と言えず、聖霊の導きにより、私たちはイエスを信じる者とされているからである。(コリント第一12:3)

<結び> 私たちの教会も、弟子たちと同じように、キリストの復活の証人として歩むよう、聖霊によって、世に送り出されている。何とかして、一人でも多くの方にイエス・キリストの福音を届けたいと願っている。私たちがこの世にあって、確かな証しに生きるなら、主ご自身がそれを喜んで下さり、主に栄光を帰すこととなる。家にあって、また遣わされた所にあって、いつでも、どこでも、聖霊なる神の導きに信頼して歩ませていただきたい。そして、導かれる時、「御霊が話させてくださる」ことに信頼して、信仰の証しを語ることができるよう、心備えをしていたい。気構え過ぎることがあり、上手く語りたいとか、自分の思いが先走ることがあるかもしれない。そのような時、五旬節の日の弟子たちの姿を思い出すように。彼らは、約束の聖霊が降るまで、祈って待っていた。十日という日数が、果たして長かったのか、短かったのか。私たちの現実において、もっと待つこともあり、反対にもっと急ぐこともあるに違いない。どちらであっても、助け主である聖霊、真理の御霊は、必ず私たちとともにおられることを覚えたい。私たちとともにおられ、私たちから離れずに、必ず導きを与えて下さる。そして「御霊が話させてくださるとおりに」、私たちをも証し人として用いて下さる。私たちの教会が今ある事実、一人一人が神の民の一人として歩ませていただいている事実こそ、聖霊の導きのしるしであり、神の御業の証しそのものである。感謝をもってこの週も歩ませていただきたい。