礼拝説教要旨(2017.6.11)
永遠のいのちの確信
 (ローマ6:23)横田俊樹師

5月の小グループ祈り会の時に、今度の説教奉仕のため、イエス様がお語りになりたいと願っておられる事を語ることができるように、祈って頂いた。イエス様がお語りになりたい事とは、まずは「福音」だろう。今朝の招詞で、イエス様は、神の国の福音を宣べ伝えるために遣わされたと、仰っている。福音というのは、今日の聖書個所では「永遠のいのち」という言葉で表されている。永遠のいのちを与えるためにこそ、神の御子は天を蹴って地上に下られたし、十字架にもかかられた。ここのところが、イエス様が一番、すべての人に伝えたいと強く望んでおられる事だと思う。イエス様は、また神様は、私たちに永遠のいのちを与えたいと願っておられる。だからその事を信じてほしいし、「確信」してほしい。
 おそらくクリスチャンの方なら、永遠のいのちを信じてはいると思う。ただ、ここでちょっと注意しておきたいのが、なんとなく、漠然と信じている、というのと、明瞭に認識する、確信する、というのとでは、大きな違いがあるという事。それこそ天と地ほども違う。喉が渇いているときに、蛇口をひねっても何も出てこない水道と、蛇口をひねったらジャバーといくらでも水が出てくる水道くらい違うというか。永遠のいのちの「確信」が与えられると、心の中から喜び、平安、希望、また力、そういったものが湧き出てくる。ところが、結構、クリスチャン歴の長い方でも、この肝心な最もイエス様が知ってほしいと願っておられる永遠のいのちの確信がないままの方が少なくない。
 アメリカのほうでのお話。牧師が、あるご婦人に二つの質問をした。そのご婦人は、最近引っ越してこられた方で、前にいた教会の開拓期から熱心に奉仕し、教会建設を支えてきたクリスチャンだったが、その姉妹に、牧師がこんな二つの質問をした。「あなたは、もし今日、死んだら、天国へ行くことを確信してますか。」このご婦人は、わかりません、と答えた。何十年も、それも熱心に奉仕をしてきたクリスチャンだったが、確信がなかったのだ。二つめの質問。「あなたが、今夜地上を去って、神様の御前に出るとしましょう。そして神様が『なぜ、私はあなたを天国に入れるべきなのですか。』と尋ねられたら、あなたは、どう答えますか。」これに対して、そのご婦人は、「さあ、そういうことを考えたことがありませんが、私は、これまでずっと、礼拝に出席してきましたし、病人を訪問したり、教会の奉仕もしましたし、足りないながらも、隣人を愛そうと努めてきましたから、私は、自分がそれほど悪い人間だとは思いませんが。」というような答えが返ってきた。つまり、神様の御前に出て、どうしてあなたを天国に入れるべきなのですか、と問われた時に、彼女は、自分の行いを吟味したのだ。教会の奉仕もし、隣人愛にも努めてきた。大変、よくやってこられたご婦人だったが、それはすばらしいことだが、しかし、それで天国に入れるかどうかが、決まるという救いの理解の仕方では、確信がなかったのだ。救いの理解の仕方が違っていると、おそらくどれほど頑張っても、永遠のいのちの確信は持てない。確信を持てないだけでなく、そのような方法では、事実、永遠のいのちを手に入れることができない。
 私たちが永遠のいのちを得るための正しい道とは、どういうものか。次に三つの選択肢のうち、どれが正解か。1、悪いことをしなければ、天国に行く。2、悪いことをしないだけでは不十分、善行をたくさん積んだ人が、天国に行ける。じゃ、悪いこともしたけど、いいこともした人はどうなるのか?というと、それは差し引き、良いことのポイントが残ったら天国、赤字になったら地獄ということになるのだろうか。普通は、この1か2かというところ。ところがここに第3の選択肢がある。それは、まったくの無代価で、ただで与えられる。神様からの善意のプレゼントとしてもらうという事。聖書によると、正解はこの3番目。「罪からくる報酬は死です。しかし神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)
 まず前半、罪の報いは、死。ここにあるのは、因果応報の原理。よいことをしたらよい結果、悪いことをしたら悪い結果、それぞれ相応な報いを受けることになる。それは、正しい事。そして、この世界の造り主の基準に照らすと、すべての罪の報いは死である。
 ここで、問題となるのは罪とは何か、ということ。ある人はこれを、次の三つに分類して説明している。一つは、社会の法律、規則にふれること。たとえば、物を盗んだり、人を殺したりするなど。二つめは、人間の良心に触れること。警察に捕まることはないが、自分の良心がチクチク痛むようなこと。たとえば、浮気は警察に捕まらない。しかし、人間の心があれば、良心が痛む。良心というのは、神様が一人一人の心に置かれた裁判官である。そして三つめは、神の倫理にふれること。小さなウソは、法律にもその人の良心にもふれないかもしれない。しかし、神の倫理から見れば、罪である。聖書は、人を心の中で、そうっと憎んでも殺人と同罪であると言っている。と、すれば、この世に生まれてからこの方、一度も罪を犯さない人がいるのだろうか。
 こういった罪は、たとえそのときはバレずに、うまくやり過ごしたとしても、あるいはまた、どんなに面白く、魂をひきつけるように見えるものでも、最後にまとめてツケを支払わされる。最初は、罪は良い顔をして、ツケで遊ばせてくれるかもしれない、楽しませてくれるかもしれないけれども、罪の報いは死。死というツケを必ず払わされる時が、必ず来る。
 そして、恐ろしいのは、ここの死というのは、単に肉体の死のことではなくて、魂の死、永遠の滅びのことだということ。いのちの源、あらゆる祝福、よきものの源であられる神と永遠に離れて、永遠の暗闇、永遠の苦しみの中に、魂が置かれることだ。魂は、なくならない。消滅しない。神から離れた魂は永遠に苦しみ続ける。罪は、最後にはまとめてこのツケを突きつける。私たちが生まれてから死ぬまでの間に、いったいどれくらい罪のツケがたまっているのだろうか。
 罪の報いは死、という因果応報の原理。これは、もちろん、世の中には必要な原理である。これ自体は、正義にかなったこと。良いことをしたら、良い結果、悪いことをしたら、悪い結果。原因に対して結果は、相応の報いとなっているべきもの。この原理がなければ、世の中は無法地帯となり、正しく治められない。
 ただ、問題なのは、この因果応報の原理でいくと、私たち自身も、永遠のいのちには決して入ることができないということ。聖書は、「義人は一人もいない」と、神の眼から客観的に見た、私たちの人類の状態を教えてくれている。すべての人は、そのままでは、罪ゆえに、永遠の滅び、永遠の死という報いを刈り取らなければならないと、あらかじめ教えてくれている。
 しかし神様は、ここに因果応報ではない、まったく別の原理をもちこんで、私たちに永遠の命を与えて下さった。それは、恵みの原理である。後半に「神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」とある。「神の賜物」なのだ。まったくの、神様の御好意による賜物。ただただ神様の憐れみの所産以外の何物でもない。まったくのタダ、無代価で差し出されているプレゼントなのだ。何かをしたら、すばらしい功績をたくさん積んだら、それに応じて報いとして永遠の命を与えよう、というのではない。そういう因果応報の原理では、とうてい、どうがんばっても、永遠のいのちに値する代価は払うことができない。そんな私たち人間のために、神様は、まったくの賜物として、永遠のいのちを与えるようにされたのだ。これは、因果応報ではない、まったくの恵みの原理によるもの。この、まったくの恵みの原理こそが、永遠のいのちに至る正しい道なのだ。
 永遠のいのちは、私たちにとって無代価、代価を払わなくていい。もちろん、お金を払わなくていいということだけではなくて、あらゆる善行、業績、そういったものもいっさいなしに、私たちの側が持っているものに関係なく、ただ信仰の手を差し出して受け取る者には、誰にでも与えられるプレゼントである。ただし、私たちの側からすると全くのタダなのだが、神様の側では、実は大きな犠牲を払っておられる。すなわち、イエス・キリストが、私たちの罪のツケを全部、支払ってくださった。私たちの罪を、神様は全部、御子キリストの上に置かれた。そしてそこで、私たちの罪に対する裁きを行ってくださった。御子キリストもまた、それをご自分から進んで、自発的に、そのことをしてくださった。こうして、正義の因果応報の原理を犠牲にすることなく、貫きつつ、しかも、私たちに対しては恵みの原理によって、まったくのただで、永遠のいのちを与えてくださるという、超ウルトラCを、神様はキリストにおいて成し遂げてくださった。永遠のいのちは、この恵みの原理によらなければ、決して手に入れることができない。
 このキリストにある永遠のいのちは、拒む者に無理やり、与えるわけにはいかない。プレゼントだから、受ける側が、はい、ありがとうございます、と心から感謝して受け取らなければ、自分のものにならない。私たちが、永遠のいのちを頂くのに必要なのは、キリストを信じ、受け入れること。それが、それだけが必要。キリストを信じた時に、天からの目に見えない恵みの水道管が開かれて、永遠のいのち、真のいのちが私たちの心に流れ込んできて、私たちの魂を潤し始める。
 キリストを信じる事が、永遠のいのちを頂くこと。それは、確信していいのだ。あとどれくらい立派なことしないといけないのか、とか、これで十分だろうかとか、自分のようなものが本当に天国にいけるかどうか、とか、あやふやな、まちがった考え方を捨てて、神様が全くの恵みとして、賜物として下さっている永遠のいのちを、喜んで、感謝して、頂けばいいのだ。それは、私たちがどうであるかと言うことに、いっさい依存しておらず、ただキリストがすでに十字架上で成し遂げてくださった事、すでに完了された業に基づいて与えられるものだから、感謝して受け取り、そのあとは与えられていると確信するべきなのだ。この確信の度合いと喜びの度合いは、おおむね、比例していると言っても過言ではない。だから漠然とでなく明瞭に永遠のいのちを確信してほしいのである。
 このように、永遠のいのちを確信できることこそ、クリスチャンの特権、すばらしい祝福だと思う。罪人でも永遠の命に与れる、というのが、私たちが宣べ伝え、信じている福音なのだ。私は天国に入れていただく確信があります、と言ったからといって、「ずいぶんとまあ、自信家なことですねえ。」とか、「なんて高慢なんだ」とかいうものではない。クリスチャンは、自分が善人だから、永遠のいのちをもてると確信するうぬぼれやなのではない。キリストが、それをただで与えてくださったことを知っている、果報者、幸せ者なのだ。おごり高ぶる者ではなくて、喜ぶ者なのだ。サタンはこの確信を曇らせようと、疑いを私たちの心に投げ込む。また私たち自身の心もいろいろな目の前の事に覆われて、このことが埋もれてしまうことがある。ぜひとも、この永遠のいのちの確信に常に満ち溢れていることができるよう、御霊の祝福を乞い願おうではないか。