礼拝説教要旨(2017.6.4)   == ペンテコステ礼拝 == 大会・共同の祈りの日
助け主なる聖霊
(ヨハネ 1:16〜17、26)
 4月16日にイースター礼拝をささげてから7週が過ぎ、今朝は、教会の暦による「五旬節:ペンテコステ」を迎えた。
主イエスが十字架で死なれる前、最後の晩餐の席で語られたこと、聖霊が遣わされる約束が、ペンテコステの日に実現した。
教会は、そのことを忘れることなく今日まで歩んでいる。
主イエスが、十字架の死から三日目によみがえり、四十日後に天に昇って行かれた時、
弟子たちは、最早、肉の目で主を見ることはできなくなった。どんなにか恐れや不安に包まれていたに違いない。彼らは、主の約束を待ち望んでいたが、その約束の言葉をはっきり覚えていたかどうか分らない。けれども、主の約束は明確であった。
その確かな言葉に、今朝、私たちは目を留めてみたい。

1、最後の晩餐の席で、弟子たちのほとんどは、何とも言い難い恐れと不安に包まれていた。主ご自身、いのちの危険を知った上で、エルサレムに来ておられた。
思い止まらせようとする人々の助言を退けてエルサレムに入城し、宮ではユダヤ人の指導者たちと対決し、彼らの怒りが燃え上がるのを、弟子たちは見ていた。

晩餐の席での主イエスの行動に、弟子たちの緊張は高まって、恐れは頂点に達していた。主が弟子たちに

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。・・・」(14:1)

と言われたのは、正しくそのような状況の時である。主は、もうしばらくすると、わたしは皆と別れ、父のもとに行くと明言された。別れと聞いただけで、不安の増す弟子たちに向かって、次の言葉を語っておられた。

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。・・・」(16〜17節)

主ご自身には、十字架の死と、死からのよみがえり、そして昇天は自明のことであった。残される弟子たちへの手立てとして、助け主なる聖霊が遣わされることを約束されたのである。

2、弟子たちは、その約束をどれ位理解したのだろうか。恐らく、その後に続いた言葉、

「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。・・・」(18節)

を聞いて、一層戸惑ったに違いない。主は弟子たちのことを、
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています」と言われ(16:6)、

また、
「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません」とも言われた(16:12)。

今は耐えられず、とても理解が及ばないとしても、助け主が来るなら、弟子たちの心は、その助け主なる聖霊に照らされ、確かな真理へと導かれると、主は語られた。(16:4、7-13)
一連の励ましの教えの中心は、「聖霊を助け主として遣わす」という約束にあった。
「これから起こることは、只ならぬことであり、その後に続くことも、思いがけないことがあって、恐れや戸惑いが付きまとうであろう。でも、わたしはいつもともにいる。
目に見える形での別れが来るが、代わりに遣わされる助け主は、あなたがたを真理に導く。あなたがたの傍にいて、必ず、あなたがたを助ける。だから、勇敢でありなさい。」
主イエスは、そのように弟子たちを励まし、立たせようとされた。

3、これらの約束の言葉、また励ましの言葉が、その通りとなったのが五旬節、ペンテコステの日の出来事であった。
主は、復活された後にも語っておられた。

「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)

天に昇って行かれる前には、

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」

と、弟子たちに語っておられる。(使徒1:18)
そうした言葉の通りに、聖霊が弟子たち一人一人の上に、目に見えるしるしを伴って注がれたのである。

「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(2:1-4)

彼らはイエス・キリストのこと、すなわち、キリストの復活の出来事について、その証人として語り出した。その光景は人々の驚きを引き起こすものとなって、多くの人がイエスをキリストと信じる信仰に導かれた。(2:32-33、41)
その時以来、聖霊は助け主として弟子たちを導き、教会を力づけ、今日に至っている。私たちも、主イエスの約束の通りに、助け主なる聖霊に導かれている。
「助け主:パラクレートス」とは、傍に呼んで下さる方、あるいは、傍にいて支えて下さる方など、確かな助け手なるお方のことである。(※ヨハネ第一2:2「弁護する方」)

<結び> 神の民としての群れであるキリスト教会は、確かにペンテコステの日以来、新しくされ、目覚ましい展開をしている。福音を全世界へ届けるように、キリストの復活の証人が送り出されるようになった。

私たちが主イエスを信じている事実、こうして主の日に公の礼拝をささげている事実は、キリストの復活の証拠であると共に、ペンテコステの聖霊降臨の出来事の証拠である。

それらがなかったなら、教会がこのように存在することはなく、私たちも、このように集うことは決してない。キリストの十字架と復活がなければ、私たち人間の罪の事実、その悩ましい現実は、全く何も解決がない。

私たち人間の罪、その恐ろしいばかりの闇は、どうすることもできない事柄として、私たちを苦しめることになる。あるものをないと言い含め、ないものをあると言い募り、ひたすら私腹を肥やす輩が、この世を支配る現実は、怒りを通り越して、悲しみを覚えるほどである。そういう私たちも、実は同じ穴のムジナで、どこにも解決は見出せないからである。私たちは一体どうすべきなのか。

 私たちの罪の赦しのため、十字架で死なれたイエスを信じること、十字架の死からよみがえられたイエスがおられること、よみがえったイエスは天に昇られ、代わりに助け主として聖霊が遣わされていることを信じることによって、神を恐れ、神に立ち返り、神と共に歩む道が開かれる。神が私たちに備えて下さった確かな道、救いの道はここにある。私たちも、主イエスの復活の証人として生きることを喜び、感謝をもって地上の生涯を歩ませていただきたい。その祈りを日々、確かに導かれるように。