礼拝説教要旨(2017.05.14)
キリストのからだ=教会=
(エペソ 1:20〜23)

 先週は「日本長老教会設立記念礼拝」、そして次週は所沢聖書教会の「教会設立38周年記念礼拝」と、5月は毎年、「教会」そのものを覚える礼拝が続く。今年は、「新会堂起工感謝礼拝」が加わり、私たちは「教会」を強く意識し、教会を建て上げるとはどのようなことなのか、多くの学びを導かれている。既に、「教会はキリストのからだである」と何度も学んでいるが、今一度、「キリストのからだなる教会」について理解を深めたいと思う。パウロが、教会をどのように理解していたのか、私たちは、教会をどれだけ尊いものと理解しているのか、思いを新たにしたいからである。

1、パウロがエペソ人への手紙をローマの獄中から書いた時、囚われの身であるからこそ、イエス・キリストの十字架の御業によって、罪から解き放たれることの幸いを、より深く、より確かなものと思ったに違いなかった。ユダヤ人も異邦人も神の家族とされ、キリストの教会に迎え入れられる恵みの大きさに、彼の心は喜びと感謝に満ち溢れた。神の恵みの測り知れなさは、世の始まる先からのことであり、時が満ちて、自分の身に明らかにされていると知って、ただただ、神の栄光がほめたたえられますようにとの祈りに行き着くのである。(1:11-14)その祈りは、聖徒たちが一層、神を知る知識において豊かにされ、キリストの教会に連なる恵みを知るようにとの祈りとなる。(1:15-19)20節以下がそれに続く。「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。・・・・・教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」キリストの教会は、あらゆるものの上にあるものという、高らかな宣言であって、死からよみがえられたキリストが、教会のかしらであるとは、そのような視点でなのである。

2、私たち人間の視点は、ただ自分の目で見ることや、自分で考えられることだけに偏り易い。紀元一世紀の教会は、この世では少数派で、まだまだ頼りない存在であったと思われる。イエスをキリストと信じて歩み始めた聖徒たちは、世にあって、時にはひっそりと息を潜めたり、迫り来る迫害に身の縮む思いをしていたのかもしれない。パウロは、そのような聖徒たちを励ますため、神の力の大きさ、キリストの愛の豊かさを説こうとした。救いの恵みは、ただただ神から注がれるのであって、人はただ神によって救われ、キリストにあって、聖徒として歩ませたいただける・・・と。パウロが人々に気づいてほしいと願ったのは、自分の行いや努力とは無関係に、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(2:8)という、救いの事実である。そして、その救いによって、聖徒たちは皆、キリストのからだである教会に連なる者とされている事実である。聖徒たちは一人一人、キリストのからだである教会の部分部分とされ、それぞれの役割を果たすよう期待されている。その役割は多種多様であり、皆が同じような働きをするわけでないのは、先週も触れたことである。(4:1-16、※コリント第一12:12-27)

3、ところで、キリスト教会を理解するのに、教会の始まりをいつとするのかについて、考え方に大きな違いがある。私たちの長老教会は、「教会は、神がその栄光をあらわし、ご自身との交わりを喜び楽しむ聖徒として集められた神の民である。その教会は、天地創造以来、各時代に救いと真理の知識を受け伝えて永遠に至る」と理解する。(憲法総則:第1条)また、「教会の基礎は神の隠れた永遠の選びに置かれ、各時代の教会はその選びのあらわれである。それゆえに、キリスト以前の時代であれ、キリスト以後の時代であれ、教会は一つであり、同じ国民であり、神の家族である」と考える。(第2条)そして、「キリストは教会の唯一のかしらであり、教会はキリストのからだである。キリストは、みことばと聖礼典を教会に与え、聖霊の働きを通して教会を治められる。キリストを礎石として、使徒と預言者という土台であるみことばの上に建て上げられる教会は、キリストの主権がすべての部分におよぶところのキリストの王国である」と言う。(第3条)これが、私たちの教会理解の「基本原理」である。教会が永遠の選びに基づくという理解は、エペソ人への手紙で説くパウロの理解である。地上を生きる人間の理解には限りがあっても、神が神の民としての教会を、やがて天の御国での救いの完成に至るまで導いて下さる。永遠から永遠に続く教会の歩みは、実に壮大なものである。

<結び> 日本長老教会の憲法総則で、更に次のように言う。「公同教会は永遠から神に選ばれた者の総体である。それは神のみによって完全に知られており、常に不変である。公同教会の究極的な基盤は主権者である神の隠れた予定にある。」(第6条)神のみが完全に知っておられる「公同教会」があり、その公同教会が歴史の中で、「見える教会」となって現れた一つが「日本長老教会」であり、その群れの一つが「所沢聖書教会」というわけである。そして、教会が教会として尊い根拠は、かしらなるキリストのゆえであることが何に増しても肝心なことである。「この教会は、そのかしらであるキリストの聖さのゆえに「聖なる公同の教会」と呼ばれる。キリストのからだである聖徒も、聖さにあずかり、それを地の塩、世の光としてあらわす。なお、教会はその未完成さのゆえに誤りは避けがたく、キリストのことばと、聖霊による聖めと真理に対する信仰によって、常に改革されてゆく。」(第8条)うっかり「教会も人の集まり・・・」などと、決して言ってはならないと心したい。と同時に、次のことも覚えたい。「この教会は聖徒にとって母である。聖徒は、神の召しを受けて成長する恵みにあずかる。唯一の神を父として持つ者は、この母なる教会を愛し、その一致と純潔のために努めなければならない。」(第10条)キリストのからだである教会を、また母なる教会と理解し、その教会の中で私たちの信仰は育まれる。また訓練されながら成長して、キリストのからだである教会の交わりを喜ぶよう導かれているのである