今朝の礼拝は、所沢聖書教会の「教会設立38周年記念礼拝」である。1957年の秋頃から始まった私たちの教会は、十数年の単立教会としての歩みを経て、1975年2月9日に旧日本基督長老教会に加入した。そして1979年5月20日に教会設立に導かれ、今日に至っている。「長老教会」においての「教会」は、牧師と長老によって治められるのが「教会」であって、私たちの群れは、その日、三名の長老が任職されたことによって、牧師と長老による「小会」を構成し、確かに「教会」としての歩みを始めたのであった。その前年の4月と12月に献堂式を行い、現会堂での歩みが大いに展開される中で、教会が整えられていたことを思い出すことができる。主の御名がほめたたえられますように!
1、教会設立から数えると38年であるが、創立からは60年となる。その長い年月の間、教会のかしらであるキリストご自身が、所沢聖書教会を導き、支え、大いに祝福して下さったことを、今一度しっかり覚えたい。私たちはこれまで、取り立てて「記念礼拝」をささげるわけでなく、「教会設立記念礼拝」を淡々とささげ続けてきた。今年も同様であるが、今朝は可能なかぎり、これまでの歩みを振り返ってみたい。そして、主なる神ご自身が私たちの群れを愛して、私たちを導き続けて下さっている事実を心に留めることにする。しかも、主ご自身の導きは、世の始まる先からのもので、私たちは、全知にして全能なる神の永遠のご計画の中で、キリストにあって選ばれ、神の子とされ、救いの恵みに入れられている。教会の交わりの中にいることの幸いは、言葉では言い表せない程に大きなもの、測り知れないものなのである。(3〜7節)私たちは、たまたま所沢聖書教会に連なっていると、そう思っているかもしれない。けれども、神ご自身は、永遠のご計画によって、私たちを選び、この教会の交わりの中に入れて下さっている。そのような気づきに導かれたい。
2、カナダ人のジョージ・ベネット宣教師一家四人が日本に来られたのは1956年秋とのこと。ベネット師は、日本への宣教の重荷を与えられ、それまでの仕事を止め、宣教師となる準備をして、日本に来た時は45歳であった。都内で約一年の準備期間を経た後、北野に住居を借りて伝道を始められた。(※当時の沢田醤油の一室を借りて住み、トラクト配布や公民館での集会を中心に。息子のケニーさんたちと同年代の若者が自宅に出入りしていたとのこと。)ベネット師を送り出したニュートライブスミッションという宣教団体は、所沢、川越、飯能、保谷、入間、横浜、川崎などで活動し、年に1〜2度合同集会を開くなど伝道熱心であったが、教会形成の視点は乏しかった。そのために、いずれの地域でも、教会が定着するには苦労があった。ベネット師が1968年に本国に帰国されることになった時、集会継続を願った数名の信徒たちは、当時、東久留米の神学校に入学した横山幹雄師の奉仕の下で、所沢の群れとしての存続が導かれた。その頃から、不思議な形で教会形成の願いが起こされて行った。横山師の一年の奉仕の後、ソルトー師が奉仕することになって、家庭集会の形の礼拝から、星の宮会館で公に礼拝をささげるようになり、水曜日の祈り会も始まった。ソルトー師との出会いが「長老教会」との出会いとなり、会館時代に用いた看板が、その後、埼玉リースの二階を借りた時、矢部姉の目に留まった。1970年の夏のこと。翌年、私自身が伝道師として招かれることになる。
3、矢部姉と内池兄に初めて出会ったのは、1970年12月、教会学校のクリスマス会であった。その時点で私は、横山師に誘われた奉仕神学生で、この教会に招かれるかどうか、何も考えていなかった。けれども、神のご計画により、1971年4月に私は伝道師として招かれ、75年2月に教会が長老教会に加入。79年に教会設立を導かれ、今年38周年を迎えている。矢部姉が転入会された時、私はまだ教師ではなかったので、宇田進師に司式をお願いしたり、とにかく新米の伝道師であった。初めての洗礼式の日、受洗者は内池姉で、内池兄は礼拝に出席して見届けて下さった。その時の内池兄の思いを、詳しく伺ったことはあまりない。でも、神ご自身のご計画は、やがて、時が満ちて、救いの恵みを、はっきり内池兄の上に注がれる時が定められていた。一人の人の信仰告白、そして受洗は、神の永遠の選びが、時が満ちて現れることで、正しく神が成さる救いの御業と教えられる。その事実は、この教会で洗礼を受けられた全ての人に当てはまり、またこの教会に転入会された全ての人に当てはまる。けれども、神が永遠のご計画によって選び、また定めておられるなら、個々の人において、そんなに待たせないで、もっと速やかに救いを実現して欲しいものと思う。家族の救いや、親しい人のことになると、尚更である。しかし、私たちが覚えるべきは、神のご計画は最善であり、完全であると信じることで、神に全幅の信頼を寄せることである。私たちの教会を神ご自身が愛して下さり、一人一人に恵みを注ぎ、神をほめたたえるようにと導いておられるからである。
<結び> 家族の中で自分だけがクリスチャンで・・・という現実も、時に悲しく、寂しい思いをすることである。家族や親しい友人が同じ信仰を持って歩んでくれるなら、どんなに幸いであろうか・・・とも思う。しかし、私たちが信じる信仰の核心は、「神は、私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」にある。所沢聖書教会に連なる全ての人は、皆この言葉の通り、世界の基の置かれる前から、キリストにあって選ばれていたとは、驚くばかりである。この言葉が意味するのは、十字架で死なれたイエス・キリストを救い主と信じて、罪の赦しを与えられるという、神の恵みによる救いは、神が愛を注いで、ご自分の子としようとする人の上に確実に実現することにある。私たちは、いろいろと物事を決めつけてしまいがちである。しかし、あの人はまだ信じていないとか、この人はもう少しとか、そんな決め事を決してしないよう心すべきである。神の確かな選びにより、私が救いに入れられたのなら、私の家族や友人もまた、時が満ちて、救いの確信に必ず導かれると、心から信じて待つことが大事となる。私たちの教会が今日まで導かれている事実から、私たちはそのような神の祝福を、いよいよ切に待ち望みたいのである。
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