「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(1節)この御言葉を主題聖句として掲げて三年目、いよいよ新会堂の建設工事が始まった。(※取壊し工事が終了して、本体の建設工事が間もなく始まるところまで来た。)会堂のことのみならず、私たちの教会の歩みの全てに、主が共にあって支え下さり、また導いて下さることを覚えて、ここまで歩んで来れた。これまで以上に主に信頼し、主に従って歩むことができるよう、祈りを篤くしたい。その願いを込め、一層の喜びと感謝をもって、新会堂の建設の業に携われるよう、この御言葉に耳を傾けたい。
1、詩篇127篇には、「都上りの歌」と表題が付いている。120篇から134篇まで、同じ表題でまとめられた歌が続く。エルサレムの宮に礼拝のために向かう人々が、喜びや感謝を込め、主を仰いで歌う詩篇がひとまとめにされている。またこの詩篇には、「ソロモンによる」との表題も加えられている。エルサレムの宮、神殿がソロモンによって建てられたことと関連している。エルサレムの神殿や町の荘厳さ、また堅固さを見て、礼拝に向かう人々が歌って、主を見上げることになるのにふさわしい歌である。エルサレムの神殿はソロモンによって、先ず建て上げられた。イスラエルの歴史においては、バビロンによって崩壊させられた後、エズラの時代に帰還民によって神殿が再建された。いつの時代にあっても、人々が気づくべきこと、それは、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい・・・」という真理である。「建物」としての「家」、そこに人が住んで築く「家庭」の、どちらにも当てはまる。人の手の業がどれほど優れていても、人を生かし、人を用いて下さる神がおられることを、私たち人間は、決して忘れてはならない。
2、2節は、人が生活する全ての営みにおいて、背後に神の守りのあることを知ることの大切さを、ズバリ言い切る。私たちが気づこうと、気づくまいと、神の御手の守りの中にあって、また神の支配の下にあって、私たちは生かされている。その大事なことを、私たちは普段どれだけ心に留めているだろうか。「あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」(2節)自分の人生はもちろん、私たちの教会の歩みは、神の御手に守られ、導かれて今日がある。「早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも」とは、その一つ一つの行為というよりも、神を忘れたまま、必死に労苦する生活態度の全般を指している。人は皆、生きるために必死である。「食べるために働く」のか、「働くために食べる」のか。精一杯働き、それぞれの人生を全うしたいと願う。現実の生活が、それなりに満たされていても、主なる神が、私たちを支え、豊かに養って下さっていると、気づくことがないなら、それは大切なものを見失っていることになる。「主は愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」神は私たちに、一日の働きを終える時、「眠り」すなわち「休み」を備えて下さっていると気づきたい。
3、「主が家を建てる」と言う時、その「家」は、やはり「神の宮」、神を礼拝する場所としての「家」が、はっきりと意識されていることを、今一度覚えたい。「私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を書いています。それは、たとい私が遅くなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」パウロはテモテに、このように語った。(テモテ第一3:14-15)「神の家」とは「教会」のことと。教会の営みの全ては神が成さる業と、私たちもはっきり覚えたい。そして、教会を建てるとは、建物としての教会堂より、キリストの教会としての中身であることを、より大切にしたい。「教会建設」は、建物の建設より、教会としての内実を建て上げることが重要と言われる。建物は「教会堂」であって、そこに神の民が集まり、礼拝をささげる群れがあって、そこに「教会」がある。一人一人がしっかり教会に連なっていること、キリストにつながっている事実が尊い。私たちは、主に愛されている者たちである。主なる神ご自身が、イエス・キリストの血潮によって、罪の中、滅びの中から救い出して下さった。この確かな救いの恵みを覚え、感謝に溢れて神に従う歩みの中に、「教会堂」を建て上げる業も加えられている。この幸いをしっかり味わことが導かれるよう、主イエスの言葉も心に刻みたい。(ヨハネ15:1-5)
<結び> 所沢聖書教会として、会堂建設は三度目となる。牧師館取得を入れると四度目である。1978年4月30日に第一期、12月10日に第二期の献堂式を導かれ、2002年7月14日に牧師館感謝礼拝を導かれた。主が私たちの教会を愛して、ここまで歩ませて下さったことを感謝したい。「この町には、わたしの民がたくさんいるから」との主の励ましに、私たちも何度も力づけられながらここまで来た。(使徒18:10)私たちが何事かを成し遂げたからではなく、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい」との御言葉に教えられ、支えられて、ここまで歩ませていただいた。この2017年度に新たな献堂式を迎えられるのか、更に待つことを学ぶようになるのだろうか。全てを主に委ね、私たちは自分の成すべき務めを果たしたい。気づいたら、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」と言われているように、その時を喜び迎えたいものと思う。
|
|