受難週の五日目の夕方、主イエスは弟子たちと過越の食事をされ、多くの教えを語られた後、いよいよ時が近づいたことを知って、いつものようにオリーブ山に行かれ、いつものように祈られた。ゲッセマネの園で、十字架の死を思って、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈っておられた。主イエスは、その祈りを繰り返し、「苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。」けれども、祈り終わった時、まっすぐに十字架を見据えて立ち上がっておられた。その時、イスカリオテのユダに先導されて、ユダヤ人の指導者たちによって差し向けられた群衆が、剣や棒で武装してやって来たのである。こうしてイエスは捕えられ、大祭司の家に連れて行かれた。(22:39-65)
1、夜が明けて議会に連れ出されたイエスは、神を冒涜したとの判決により死罪にあたると、ローマ総督ピラトの前に立たされた。しかし、この時、ピラトは「この人には何の罪も見つからない」と語って、イエスを釈放しようとした。彼は何度も群衆に語り、群衆を説得しようとしたが、十字架につけろとの大声に負け、とうとうイエスを引き渡してしまった。こうしてイエスは、十字架につけられるため、ローマ兵たちに引き渡され、むち打たれ、痛めつけられ、十字架を背負わされて、ゴルゴダの丘へと連れて行かれた。刑場であった丘には三本の十字架が立てられ、イエスの両側には二人の犯罪人がはり付けにされていた。その二人は、それぞれ自分の犯した罪の報いとしての刑を受けていたが、イエスは、全く自分には罪がないにも拘らず、その刑を受けていた。ご自分の民の罪を赦すため、身代わりの死を遂げておられたからである。十字架の上で、同じ苦しみを耐えていた犯罪人の一人は、やがてイエスを信じる信仰に導かれた。罪のない方がこの刑についているのは、何か特別の意味があると気づいたからである。彼は、苦しみの最中に、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」との、最高の慰めの言葉を聞くのであった。
2、イエスは「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言って、息を引き取られた。その場に弟子たちの姿は、ほとんど見られない。(※ヨハネの福音書では、十字架のそばに母マリヤたちがいて、弟子のヨハネもいたことが記されているが。)弟子たちは恐れに包まれ、とても近づけなかったようである。ピラトの前に、イエスの身体の下げ渡しを願い出たのは、アリマタヤのヨセフであり、墓へ納めるのを手伝ったのはニコデモである。それまで、イエスへの信仰を言い表すのを躊躇っていた二人は、この時こそと、思い切って進み出ていたのである。(※信仰の決心をするには、必ず時が備えられている。神が促して下さる時があり、その時に一歩踏み出すこと、それが大事!)イエスの身体が墓に納められるのを、しっかり見届けていたのは、ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちであった。彼女たちは、安息日が明けてから、もう一度思いを込めてイエスの身体に香料と香油を注ぎたいと願い、その時を心待ちした。イエスの葬りは、安息日の始まる金曜日の夕刻、慌ただしくなされたからである。こうして「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。」(1節)
3、彼女たちの心配は、墓の入り口の墓石のことであった。誰かに開けてもらえるのだろうか。自分たちには無理そう・・・。ところが、「見ると、石が墓から脇にころがしてあった。」(2節)「入ってみると、主イエスのからだはなかった。」一体何が起こったのか。イエスの亡骸がそこにない・・・とは、全く思いもよらないことである。途方にくれる女たちの前に現れたのは御使いたちであった。彼女たちが見たのは、「まばゆいばかりの衣を着たふたりの人」であって、恐ろしさが増すばかりであった。御使いは「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。・・・」と、ガリラヤにおられた頃、必ず「よみがえらなければならない」と言われたことを思い出しなさい、と告げたのであった。彼女たちは、よくよく考え、「イエスのみことばを思い出した。」それは、全くの驚きであり、考えもしなかったことである。けれども彼女たちは、墓が空であったこと、イエスは生きておられること、それは予め告げられていたこと等々、イエスのよみがえりを信じるようになり、墓から戻って、弟子たちに一部始終を報告した。使徒たちには、特にしっかり伝えようとしたようであるが、彼らには「この話はたわごとと思われたので」、女たちを信用しなかった。それでも、ペテロは立ち上がって墓に向かい、空の墓を見たのであった。(3〜12節)
<結び> キリストの復活、十字架の死からのよみがえりの出来事は、イエスと一緒に過ごし、イエスの教えを聞いていた弟子たちにとっても、全く信じられない出来事であった。数人の女たちが真剣に語ったことを、上の空で聞いていたかのように、彼らは「たわごと」と思って、彼女たちを信用しなかった。これは本気で聞く話ではない・・・とばかり・・・。報告した女たちも、最初はとても信じられないことと戸惑い、恐れに包まれるのであったが、御使いの促しにより、心が開かれて行った。主イエスは、確かに「三日目のよみがえり」を語ったおられた・・・と。そしてマグダラのマリヤは主にお会いし、その後に弟子たちに知らせたものと思われる。彼女たちが使徒たちに話した時は、かなり確信を持って語っていた。それでも、主イエス・キリストの復活は、たわごととしか思えない、とんでもない出来事であった。
けれども、主イエスは死からよみがえり、やがて弟子たちを信じる者となるように、ご自分の姿を現しておられた。復活されたその日の夜、弟子たちのいる部屋に入って来られ、復活の身体を弟子たちに見せ、「まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。・・・」と語られた。その前には、エマオ途上の二人の弟子たちにご自分を現され、また、ペテロには、特別にご自分を現し、弟子たちの皆が、イエス・キリストの復活を信じる者となって、それぞれが復活の証人となるように導かれたのである。最初の弟子たちが、キリストの復活を信じる者となったので、その出来事が今日に至るまで宣べ伝えられている。この不思議を今朝は覚えたい。そして、私たちも復活の証人となって、福音を宣べ伝える者として、歩ませたいただきたい。世の人々が「たわごと」と思っても、復活のキリストは今も生きておられると、証しできるように。
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