礼拝説教要旨(2017.04.09) =受難週=
祈られ、支えられ
(ルカ 22:31〜34)

 受難週を迎え、次週は主イエス・キリストの復活を祝うイースター礼拝を迎える。十字架の死に向かって歩まれた主イエスのお姿を心に留めるには、エルサレム入場から始まる一日一日を覚えるのが一番かもしれないが、今朝は、最後の晩餐の席での一コマに目を留めてみたい。主ご自身は、十字架での身代わりの死をはっきり意識しておられたのに対して、ペテロをはじめ弟子たちは、ほとんど何も分らずに、ただただ狼狽えている様子が、何とも不思議な感じがしてならない。その様子は、神に守られ、また支えれている私たちの姿と重なっている。そのことをしっかり心に刻みたいと思う。

1、受難週の一日一日は、主イエスにとって、最後の時が迫る、全く疎かにできない日々であった。時を惜しまず人々に語り、それに反対するユダヤ人の指導者たちと論じ合っておられた。また、ご自分が何者であるかを明らかにするたとえを語り、父なる神から遣わされた「わたし」を信じるようにと、聞いている人々に対し、明確に迫っておられた。ユダヤ人の指導者たちは、イエスがご自分を神とすることに反発し、また自分たちが責められていると気づいて、イエスを亡き者にしたいと、その機会を狙うようになって行った。弟子たちは、イエスを主と信じて従いながら、状況が緊迫して行くのに戸惑いながら、不安の中で過越しの食事の席に着いていた。その席で主は、パンと杯による聖餐式を定め、また多くの大事な教えを語られた。弟子たちは教えの大事さは分っても、その中身は消化しきれず、主ご自身との別れの時が近づいていると、一層不安に包まれていた。そんな時に弟子たちは、誰が一番偉いのかを論じ合い、主からたしなめられていた。そして主は、ペテロに語られた。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(31〜32節)

2、弟子たちの中に裏切る者がいる・・・。一番偉いのは誰か・・・。そんなことを考えている時に、主から、「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかける・・・」と言われ、ペテロは、「そんなことにはならない! あってはならない!! 負けるものか!!!」と奮い立った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」彼は精一杯、主イエスへの忠誠を誓い、「あなたに着いて行きます!」と、その思いを伝えたかった。「しかし、イエスは言われた。『ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あたなは三度、わたしを知らないと言います。』」ペテロには全く思いもよらないことを、主から告げられた。(33〜34節)他の福音書によると、「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と強弁し、主が「わたしを知らないと三度言います」と言われても、なお「あなたを知らないなどとは決して申しません」と言い張っていた。ペテロだけでなく、皆そう言い張った。(マルコ14:27-31) けれども、弟子たち全員が、主イエスが捕えられた時に逃げ出し、ペテロは、主が告げられたように、鶏が鳴く前に三度、「私はあの人を知りません」と言い張ってしまった。けれども、彼は主を知らないと言ってしまった後、主に見つめられて思い出し、「外に出て、激しく泣いた。」のであった。(ルカ22:54-62)

3、ペテロが、主のことばを思い出せたのは何故か。それは主イエスに祈られていたからである。「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」この祈りがあったので、ペテロは思い出すことができた。そして、立ち直りの一歩を踏み出せた。悔いの涙はそのしるしである。ペテロの強い決心も言葉も、とっさの時には何の力もなかった。目の前の恐怖に吹き飛ばされ、彼はイエスを知らないと言い張った。そして自分の弱さと愚かさに打ちのめされた。しかし、主は、その打ちのめされたペテロを用いようとされるのである。彼の信仰がなくならないように祈るとともに、「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と励まし、挫折して、打ちのめされたところから立ち直った者として、同じように弱さの中にある仲間を思いやり、力づけてやりなさい・・・と。ペテロは、主イエスに祈られていた。また支えられ、励まされていた。主が十字架で死なれた後、ペテロは他の弟子たちと、ほとんど言葉を交わせなかったに違いない。これから自分はどうすればよいのか・・・。恐れと不安にいたたまれなかったことであろう。しかし、主はよみがえってから、ペテロ一人のために姿を現しておられる。(24:34)また直接、具体的に立ち直りと促しておられた。(ヨハネ21:15-23)

<結び> 聖書の中に、いくつか、この記述があるからこそ、聖書は本当に神のことばである、この聖書に聞き従おうとれと、思わせてくれる記述がある。その一つがこれ!と、私は大いに励ましを与えられる。聖書の中の登場人物は、それぞれ神に用いられ、尊い働きをしているが、ほとんどの人が、確かに弱さや愚かさを、はっきり気づかされた上で、神によって立たされ、用いられている。もちろん、有能で、優秀で、力のある人物が、神に用いられているが、人間的なもの、また、この世的な有能さや優秀さ、そして力ではない。一度だけではなく、何度も失敗したりしながらも、主イエスに祈られ、支えられしながら、ペテロは主に仕え、また人々に仕える者として用いられたのである。パウロもしかりである。

 私たちが、今、信仰に導かれ、信仰をもって歩めるのは、実に、主イエスに祈られ、支えられているからである。こんなに力強いことは、他には決してない。「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」主によって祈られている私たちは、真に幸いである。また、主によって支えられている私たちは、決して行き詰まることはない。倒れても、また立ち上がらせていただき、その力づけによって、他の人を励ますこともさせていただける。主によって祈られ、支えられている私たちが、互いのためにも祈り、支え合う、そんな歩みが導かれるように。(詩篇37:23-24、ローマ8:31-34)