カイザリヤで、「私はカイザルに上訴します」と弁明したことによって、パウロは囚人としてローマへと送られた。船の旅は、激しい嵐に命を脅かされながら、パウロを守る神の御手は、同船する全ての人々にもおよんで、全員が無事マルタ島に上陸した。その島で冬を過ごした後、船でポテオリに着き、そこらは陸路で、遂にローマに到着。途中、主にある兄弟たちの出迎えを受け、パウロは神に感謝し、大いに勇気づけられた。旅の最後の方は、囚人として護送されていたにも拘らず、パウロは人々から尊敬され、もてなされている。百人隊長の信頼を得ていたからである。ローマ到着後、「パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことを許された。」(16節)全く逃亡の恐れなし・・・と。
1、番兵は付いていたものの、パウロにはかなりの自由が与られていた。人の出入りが許され、早速の訪問者はユダヤ人たちであった。「三日後、パウロはユダヤ人のおもだった人たちを呼び集め、彼らが集まったときに、こう言った。『兄弟たち。私は、私の国民に対しても、先祖の習慣に対しても、何一つそむくことはしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に渡されました。ローマ人は私を取り調べましたが、私を死刑にする理由が何もなかったので、私を釈放しようと思ったのです。ところが・・・・』」何ら罪に問われることはなかった。けれども、ユダヤ人たちが反対したために、止む無くカイザルに上訴したので、今ここにいる。その事情を知っていただきたい。ユダヤ人として、聖書が教える「望み」を説いたことによって、「この鎖につながれているのです」と語った。同胞と敵対することや、律法に反することは、全くしていないことを理解してほしいと願ったのである。ローマにいるユダヤ人たちは、パウロに対してやや批判的ながらも、先入観なしにパウロの話を聞きたいと応じた。(17〜22節)
2、こうして、パウロとローマのユダヤ人たちは、日を改めて会うことになった。その日、「彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者の書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。」(23節)パウロは、旧約聖書が教えることは何か、それは救い主キリストのことであり、十字架で死なれたイエスこそ信ずべき方、神が約束されたメシヤ、キリストであると心を込めて語った。彼には、それ以外のことを語る気持ちはなかった。この方以外に救いはない!と。聖書が教える「イスラエルの望み」は、メシヤ、すなわちキリストによる救いのことであり、それは十字架のイエスがよみがえったことにおいて成就した。だから、復活したイエスを信じるように説得した。人々の反応は、「ある人々はパウロが語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので・・・」。(24〜25節)彼らはパウロが語ることに、本気で応えようとはしなかったようである。パウロは、預言者イザヤが語る通りと、彼らの頑なな心を嘆いた。(イザヤ6:9-10)そして、このローマでも、福音を異邦人に届けるのが自分の務めと再確認した。(26〜28節)
3、パウロのエルサレム行きが死を覚悟してのものであり、そこで捕えられてからは、無実のままに引き回され、カイザルに上訴したことでのローマ行きは、嵐に巻き込まれて、死に直面するものとなった。囚人として護送されている間、心の安まる時のないパウロであったが、出帆直後から百人隊長の好意によって、寄港先で人々のもてなしを受け、ポテオリでも兄弟たちとの出会いがあり、ローマ到着前には、兄弟たちの出迎えを受け、大いに勇気づけられていた。そしてローマでは、囚人であっても、人々との接見は許されたので、パウロは、朝から晩まで、イエスのことを語り続けることができた。フェストの訴状や百人隊長ユリアスの報告が、パウロの立場を擁護していたと考えられる。一体裁判の方はどうなったのか、使徒の働きは何も告げないままである。パウロの上訴に対して、ユダヤ人の指導者たちは、勝訴の見込みがなく、またローマまで出向くのを渋ったのか、何もないまま二年が過ぎていた。その間パウロは、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎え入れることができた。「大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(30〜31節)福音を語るのに、何の妨げもなく、ずばり、主イエスを宣べ伝え、イエスをキリストと信じる人が起こされるよう語り続けた。主イエスは、ユダヤ人にとっての救い主であるばかりか、全世界の全ての人にとっての救い主であること、この方こそ信ずべき方と語ったのである。
<結び> 「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」若き伝道者テモテに送った励ましの言葉である。(テモテ第二4:1-2)パウロ自身が、福音を宣べ伝えるのに、時が良くても悪くても、懸命に語り続けたことを覚えながら、後に続く者にも、同じように語り続けることを期待していた。私たち一人一人も、パウロやテモテに続く者でありたい。
この国で、今、福音を語り続けるのに、特段の困難はない。教会が何かをするのに、ほとんど制限はない。何とかして、一人でも多くの方に福音が届くよう祈りつつ、大胆に語るよう心したい。主の日の礼拝が、いよいよ祝されるように祈りつつ、前進させていただきたい。パウロに倣いつつ、福音を語り続ける教会として歩めるよう、また一人一人が証し人として歩めるように。
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