「・・・それから残りの者は、板切れや、その他の、船にある物につかまって行くように命じた。こうして、彼らはみな、無事に陸に上がった。」(27:・・・44) パウロたちは、二週間もの間、嵐に翻弄されながら、全員、その命を失うことなく、神が約束されたように救われた。アドリヤ海を漂っていた船は、何と「マルタ島」にまで行き着いていた。ローマまで、もう後わずかな所に、パウロたちは上陸していた。神は全てを益として下さる方であることを、私たちも気づかされる。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
1、「島の人々は私たちに非常に親切にしてくれた。・・・」当時、地中海で、またアドリヤ海で、船が難破し漂流して、命からがら島に上陸することは、よくあったと思われる。島の人々は、寒さをしのぐために火をおこし、パウロたちをもてなしてくれた。その時、火にくべた柴の中から一匹のまむしがはい出し、パウロの手に取りつき、一同に緊張が走った。島の人々は、「この人はきっと人殺しだ。海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ」と、顔を見合わせていた。「しかし、パウロは、その生き物を火の中に振り落として、何の害も受けなかった。」人々は、今にもパウロが倒れ、死ぬのでは・・・と見守っていたが、何事も起こらないのを見て、考えを変えた。「この人は神さまだ」と。(2〜9節)パウロの評価は、「人殺し」から「神さま」に変わり、島の首長ポプリオに招待され、一層手厚いもてなしを受けることになった。その島にいる間に、パウロは、ポプリオの父親の病気を直したり、他の病人たちを直すこともした。復活された主イエスが弟子たちに告げられたこと、福音を宣べ伝える時、「しるし」が伴うと言われた、蛇の毒から守られることや病人がいやされることが実現していた。(マルコ16:15-18)
2、パウロは、自分の手にまむしが取りついた時、慌てたのだろうか。島の人々が、「海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ」と思ったことを、パウロ自身も思うことはなかったのだろうか。しかし、この時もパウロは慌てなかった。「その生き物を火の中に振り落として、何の害も受けなかった。」嵐の中から救われたなら、蛇の毒も、自分の身を害することはない・・・という程に、神に絶大な信頼を寄せていたものと思われる。そして、事実として、神の大いなる力は、パウロを覆うように包み、蛇の毒からパウロを守っていた。そして、パウロが病んでいる人のために祈る時、神がその人を直すことによって、神の力が表わされていた。パウロの一行には、医者ルカがいたので、病のいやしは、全てが奇跡であったわけでなく、ルカの出番や、パウロの同行者による、心を込めた介抱や奉仕があったと思われる。イエスを信じる者の真心からの奉仕があり、また島の人々との交わりがあって、人々から、大いに尊敬されることになった。神の御力は、キリストを信じる人々の存在と、その働きを通して、他の人々の目に留まっていたのである。
3、航海の危険な冬の間、パウロたちはマルタ島で三か月を過ごした。ようやくアレキサンドリヤの船で出帆する時、島の人々が、必要な品々を持たせてくれ、感謝な思いでの出帆となった。シラクサで三日間とどまり、レギオンに着き、そこを出て二日目にはポテオリに入港して、そこでは兄弟たちに会う幸いを得た。そればかりでなく、彼らのところに七日間滞在することになり、ローマ到着前に、主にある聖徒たちと、親しく交わる時を過ごすことができた。その一週間の間には、週の初めの日を迎えての教会の交わり、礼拝の時があったことが、大きな喜びとなっていたに違いない。そこからは陸路にてローマに向かったとみられ、ローマからは、パウロたちの到着の知らせを聞いた兄弟たちが、出迎えるためにアピオ・ポロとトレス・タベルネまで来てくれた。「パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた。」(10〜15節)大変な思いをしての長旅であったが、今やっと、心安らぐパウロとその一行である。パウロは、主にあって、心を通わせることのできる人々、互いに兄弟姉妹と呼べ合う人々と会って、「神に感謝し、勇気づけられた。」パウロは、神によって力を注がれ、神からの励ましや勇気づけによって支えられていたが、この時、目の前にいる兄弟たちと、顔と顔を合わせて励まされ、勇気づけられていたのである。この事実を心に刻みたい。
<結び> 私たちが、週の初めの日に公の礼拝に集うこと、主イエス・キリストが死からよみがえられたことを記念して、主の日の礼拝をささげ続けていることは、私たちが気づいている以上に、途方もなく大きな恵みと祝福に満ちていることである。パウロとその同行者たちは、ローマから出向いて迎えてくれた兄弟たちに会って、どんなに喜んだことであろうか。「パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた」のである。私たちも、主の日の礼拝に集い、互いに安否を問い合い、互いに覚え合うなら、それによって、大いに勇気づけられ、互いに励ましを受けるのである。この励ましや恵み、また祝福を小さなものと誤解してはならない。これは途方もない恵みであって、大いなる励ましである。私たちは、神の力や神からの励ましは、直接的に神から来るものと思い込んでいることはないだろうか。そして、そのような励ましこそを、と期待してはいないだろうか。けれども、主イエス・キリストにあって罪を赦され、神の子とされ、神の民とされた私たちは、主の日の礼拝に集い、神を仰ぐとともに、お互いを覚え合い、励まし合うことによっても、神からの力と励ましをいただくのである。この幸いを感謝して、この週も歩ませていただきたい。(ヘブル10:19-25)
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