パウロの忠告を聞かずに先を急いだ船は、激しい嵐に巻き込まれ、暴風に吹き流されるままとなった。翌日には積荷を捨て始め、三日目には船具まで投げ捨てねばならなかった。その中でパウロは、神の御使いを通して励ましを受け、同船していた人々を力づけた。神の助けがあることを信じ、「私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます」と言うことができた。けれども、嵐は止まずに吹き荒れ、なお十日も船は流されるだけであった。こうして「十四日目の夜になって、私たちがアドリア海を漂っていると、真夜中ごろ、水夫たちは、どこかの陸地に近づいたように感じた。」(27節)ようやく、嵐からの救いが近づいていた。しかし、その救いは決して容易いことではなかった。
1、嵐の中で、方角を見失っていた筈である。けれども、アドリヤ海を漂っていることは分って、陸地に近づいていることも分り、座礁しないよう慎重に船を操り、夜の明けるのを待った。ところが、助かりたい一心の水夫たちが、こっそり小舟を海に降ろしていた。気づいたパウロが、百人隊長と兵士たちに、全員が船にとどまっていなければならないと告げたので、慌てた兵士たちは、小舟の綱を断ち切ってしまった。こうして夜が明けかけた頃、パウロは一同に食事をとることを勧めた。必ず助かることを告げ、その前に食事をして、元気を取り戻す必要を説いたのである。「・・・こう言って、彼はパンを取り、一同の前で神に感謝をささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで一同も元気づけられ、みなが食事をとった。船にいた私たちは全部で二百七十六人であった。」(28〜37節)パウロは、その船に乗っていた全ての人を導いていた。百人隊長が指揮官であり、責任者であった。けれども、今、彼はパウロの勧めに従っていた。パウロがそれだけ信頼を得ていたのである。
2、「十分食べてから、彼らは麦を海に投げ捨てて、船を軽くした。夜が明けると、どこの陸地かわからないが、砂浜のある入江が目に留まったので、できれば、そこに船を入れようということになった。」(38〜39節)錨を切り捨て、帆を上げて砂浜に向かったものの、浅瀬に乗り上げて、船を座礁させてしまった。船は波に打たれて、船尾は破れ始め、一同に恐れが広がってしまった。兵士たちの心配は、囚人たちが逃げ出すことで、その前に殺してしまおうと考えた。「しかし百人隊長は、パウロをあくまでも助けようと思って、その計画を押さえ、泳げる者がまず海に飛び込んで陸に上がるように、それから残りの者は、板切れや、その他の、船にある物につかまって行くように命じた。こうして、彼らはみな、無事に陸に上がった。」(40〜44節)壮絶な光景である。けれども、「彼らはみな、無事に陸に上がった」との記述は、神がパウロに約束され、そして船の一同にも約束された救いの、確かな成就を告げるものである。主なる神は、約束されたことを必ず実現して下さるお方なのである。
3、この時の救いは、命からがらのもの、紙一重のものであった。私たちは、神が救って下さるなら、そんなギリギリのことでなく、もう少し優しく、ハラハラすることなく救って欲しい・・・と思う。「人生の海の嵐に」の讃美歌では、「いと静けき港に着き、われは今、安ろう・・・」と歌うが、それとかなりの違いがある。命からがら浜辺に泳ぎ着いて、ヘトヘトになって、呆然と立ち尽くすのか、へたり込んでいる人々の姿が思い浮かぶ。神が約束された救いは、そのようなものなのであろうか。もう少し手心がほしい・・・と思ってしまう。しかし、私たちは、救いを誤解しているのかもしれない。自分で理解できる範囲だけで、また、自分に都合良いようにのみ考えることが多いからである。パウロと同船した一同の救いは、神が約束されたものであり、同時に、人々の愚かさや自然現象が重なりながらのものである。神が約束されたからと言って、自動的に、人がただ見守っているだけで実現するものではなかった。人間の愚かさによって困難が増したり、自然の驚異に打ちのめされたり、回り道をするようにして、救いがもたらされている。この事実は、私たちのたましいの救い、罪の汚れからの救いにおいても言える。イエス・キリストを信じて、罪の赦しを与えられ、たましいの救いに与ることにおいて、救いの究極的な完成に至るまで、私たちは大いに訓練を課せられていることを、心すべきなのである。何があっても、神に従い、神に祈る私たちであることが大事である。
<結び> パウロは、神が約束された救いを確信するからこそ、先のことを賢く判断し、また目の前のことに対しても、冷静かつ沈着に行動していた。神の確かなご支配を信じるので、今何をすべきか、何を思い止まるべきかの判断を下していた。主イエス・キリストを信じる私たちは、日々、どのように生きているだろうか。そのことを心に留めたい。
家庭や、職場や学校、また地域にあって、神を恐れ、神に従って生きる私たちの存在が意味することは、私たちが気づいている以上に尊い事柄である。神が約束して下さった救いが確かだからこそ、自分を捨て、周りの人々のためにも心を配ることできるのである。それは主イエスの生き方に倣うことである。また、主イエスが「あなたがたは、地の塩です。・・・あなたがたは、世界の光です」と、はっきり言われたことである。(マタイ5:13-16)世にあって、神の民、神の子として、神に仕え、人々にも進んで仕える者となること、この尊い証しが求められている。神の測り知れない救いの恵みが、より多くの人々に届けられるように、先ず私たちが、神の約束された救いを信じて、神に仕え、人にも仕えることを導かれたいものである。
今日の洗礼式を心から感謝したい。主の証し人が増し加えられることを喜び、救いの恵みが、また多くの人に届けられるようにと祈りたい。
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