カイザルに上訴したパウロは、いよいよローマに護送されることになった。パウロの他に数人の囚人も一緒に、ユリアスという百人隊長に引き渡され、また、パウロの同行者も共に船に乗り込んでの出帆であった。その船は、地中海沿岸を北上し、更にキプロスの島陰を航行して、地中海北岸の各地に寄港しながら進むものであった。百人隊長はパウロを親切に取り扱ったので、翌日、シドンに入港した時、パウロは友人たちを訪ね、もてなしを受けることを許された。パウロとその同行者にとって、主の確かな守りのあることを感謝する、そのような旅の始まりである。カイザリヤからシドン、そこから向かい風を受けつつ、キプロスを左に見ながら、キリキヤとパンフリヤ沖を過ぎ、ルキヤのミラに入港した。そこで船を乗り換え、イタリヤを目指すことになるが、そこから先、船の進みは悪くなり、思わぬ事態が待ち受けていた。(1〜6節)
1、ミラで乗り込んだ船の進みは遅く、幾日か経って、ようやくクニドの沖に着いたが、風のためにそれ以上進むことはできなかった。それでも、クレテの島陰を進んで、やっと着いたのが良い港と呼ばれる場所であった。クレテ島の南岸にあり、多くの船が、嵐の時などに停泊するのに適した港である。そこに停泊し、天候の回復を待ちながら、季節は秋から冬を迎える頃となっていた。(8〜9節)航海に危険が伴う季節を迎えていたので、パウロは、自分の経験から、この港に留まるよう人々に勧めた。しかし、この時、人々の意見は分かれてしまった。百人隊長は、パウロよりも、航海士や船長を信用し、また大多数の者が、ここよりも冬を過ごすのに適した港があると、出帆することを願った。彼らの思いを後押しするように、穏やかな南風が吹いて来たので、この時とばかり錨を上げて、航行するのであった。けれども、まもなくユーラクロンという暴風に船は巻き込まれ、どうにも進めないことになり、しかたなく流されるままとなるのである。(10〜15節)
2、嵐の中で、風に吹き流さる船は無力で無惨であった。曳航していた小舟を引き上げて処置をしたものの、浅瀬に乗り上げる心配があり、船具を外して流れるに任せるしかなかった。それでもまだ暴風は激しく、積荷を捨て、三日目には、船具までも捨て、船体を軽くするのに必死であった。更に幾日も、太陽も星も見えない日が続いて、最早、助かる最後の望みも絶たれようとしていた。万策が尽きて、もうどうすることもできない・・・と、誰もが思う事態となっていた。(16〜20節)この時、パウロは人々に語り掛けた。私の忠告を聞き入れていたなら・・・と。そして、「元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです・・・」と語った。(21〜22節)パウロがそのように言う根拠は、主ご自身からの励ましであった。「『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。』」先にエルサレムで、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と告げられていた。今、嵐の中でも、「あなたは必ずカイザルの前に立ちます。・・・」と告げられたので、パウロは、神の守りを確信することができた。「私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」(23〜26節)
3、パウロの冷静さは、一体どこから来たのであろうか。嵐の中で目の前の状況は最悪で、「助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。」他の人々は狼狽え、長いこと食事をとらなかったが、とてもとれなかったのである。パウロも他の人々と一緒に、必死の作業に加わっていたと思われる。違っていたのは、神に祈り、神の導きと助けを求めていたことである。そして神は、パウロの祈りに答えておられた。すなわち、絶対絶命と思う時にも、神を信じて、神に祈る人が、一人いることが、何ものにも代え難い力となっていた。その一人がいることにより、神の守りが全体に及ぶのである。これに勝る大きな祝福はない。生ける真の神は、パウロ一人を守るだけで良しとはされず、同じ船に乗っている者全員を守ろうとされた。この事実が意味することは大きい。私たち、日本に住むクリスチャンは、家の中で自分だけがクリスチャンであること、また、職場でも一人だけ・・・と、クリスチャンの少なさを嘆くとが多い。一人では心細く、無力さを感じてしまう。けれども、そんな心配を吹き飛ばしてくれるのが、今朝の聖書個所である。先行きの不安の中でこそ、私たちクリスチャンの祈りが必要である。神は、私たちの祈りを聞き、必ず答えて下さるからである。嵐の中でこそ、私たちが祈ることが大事と。(ローマ4:17-25)
<結び> また、この聖書個所からは、神を信じる私たちこそ、先を見通し、何が正しく、何が間違っているのかを問いつつ、何事にも目覚めた判断を下せるよう、冷静沈着であることを学び取りたい。地中海での冬の航海の危険を知るパウロが、出帆を思い止まるよう語ったことは、私たちに対する教訓である。先を急いだ人々の姿は、実に現代社会を思わせる。一行が乗り換えた船はかなり大きく、アレキサンドリヤからローマへ、麦を積んで向かっていた。乗っていたのは全部で276人であった。(37〜38節)商売のためローマに向かう人もいたので、皆、少しでも先を急いだのであろう。忠告を聞いて、待とうとした人はほとんどいなかった。忙しい現代社会にあって、ゆっくりと、一つの場所に留まっているのは、なかなか難しいことである。よく「祈っているだけでいいのか?」と問われる。結論は、少しでも早く出したいと気が急くものである。そのような時こそ、神を待ち望むこと、それが大事と心したい。
そして、先行きの難しい時、嵐のような困難な時、神に祈る人の存在の尊さを覚えたい。神の守りと祝福は一人を通して、多くの人に及ぶことを。
(※イザヤ30:15-18)
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