パウロは、アグリッパとベルニケのいる講堂で、自分のことを丁寧に語った。彼の心にあったのは、イエス・キリストの証人として、今、ここに立っているとの思いである。目の前には総督フェストをはじめ、かなりの人がいて、アグリッパが、パウロの話を聞きたいと、自分が呼び出されていたからである。彼の弁明の核心は、イエスを信じない者が信じる者となった、劇的回心の事実であった。イエスご自身がパウロに、「わたしは、この民と異邦人の中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす」と言われ、人々の目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせるため・・・と、言われたことに、迷わず従ったことを証言した。死からよみがえったイエス・キリストを宣べ伝えること、ただただ、そのことをしていると、熱弁を振るうのである。
1、パウロが熱く語っていた時、フェストが叫んだ。「『気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている』」と。(24節)パウロが語ることが支離滅裂であったり、意味不明だったのではない。彼は、理路整然と語っていた。いつ、どこで、何が起こったのか、かつての自分のこと、そして今の自分のこと、何があって、今の自分があるのか、聞いている人々に分かるように語っていた。けれどもフェストには、「博学があなたを狂わせている」と思われた。パウロに対する尊敬を込めながらも、ちょっと待ってくれ・・・と言うかのようである。パウロは冷静に答えた。「『フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。』」(25節)全くの正気であることを告げ、「まじめな真理のことば」を話していると語って、アグリッパ王にこそ、聞いて欲しいと言葉を続けた。「『王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。これらのことは片隅で起ったことではありませんから、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと信じます。アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。』」(26~27節)
2、「これらのことをよく知っておられるので」と言うのは、イエスの十字架の出来事は、当時の社会において、多くの人の知る事実であったからである。と同時に、死からのよみがえり、復活の出来事も、人々に知られないままのこと、密かなことではなかったからである。アグリッパ王も当然、耳にし、目にも留めたことであろうと、パウロは確信していた。事実、イエスをキリストと信じる弟子たちの数は増し加わり、教会が各地で次々に起こされていた。だからこそユダヤ人たちの反抗が激しくなったが、それでも教会の勢いは、決して衰えることはなかった。パウロは、アグリッパに、「あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います」と、畳み掛けるように迫った。王が旧約聖書を知っていることを前提とし、また神を信じているものとして語って、それこそ、イエスをキリストと信じるように促した。アグリッパは、その迫力にたじたじとなっていた。「『あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている』と言った。」(28節)彼には、反論のしようがなかった。イエスの十字架の死のこと、また死からの復活のこと、いずれも聞き及んでいたに違いなかった。諸教会のことも、見聞きしていたと思われる。けれども、自分とは無関係として踏み込まず、距離を置きながら、パウロのことは知りたいと思ったのである。
3、パウロは答えた。「『ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。』」(29節)アグリッパだけでなく、その場にいた全ての人に向って、「私のようになってくださることです」と勧めた。「私のように」とは、どのようなことであろうか。「この鎖は別として」と言う。かつて、決してイエスを信じなかった者が、今、信じる者となっているように、あなたがたも、イエスを信じる者となるように、それが私の切なる願いであると、そこにいる人々に語っていたのである。すなわち、イエスを信じる信仰に、確かな一歩を踏み出すよう勧めていた。その一歩を踏み出すには、誰もが躊躇い、迷うのは当然である。けれども、パウロは自分のことについて、「天からの啓示にそむかず」と言った。それと同じように、信じて踏み出すには、神によって促されること、その促しに従うことがカギとなり、そこに大きな幸いがある。パウロはそのような意味を込めて、「私のようになってくださることです」と言った。多くを知ること、また、多くの経験を積むことも大事であるが、わずかな知識のままでも、神を恐れて、神に従うことが尊いことである。パウロはその尊い道を踏み出すよう勧めたのである。
<結び> 結局、アグリッパもフェストも、それ以上、パウロの話を聞こうとはしなかった。彼らは退場して、互いに話し合った。アグリッパはパウロに同情的で、パウロの無罪を確信して、カイザルへの上訴がなければ、すぐにでも釈放されたであろうに、とフェストに告げた。(30~32節)こうして、フェストもパウロの無罪を認めながら、カイザルに上訴したパウロを、ローマに護送することになった。(27:1)死や投獄に相当する罪を認められないままで、なお罪を問われて引き立てられる姿は、十字架に向かって引き立てられた主イエスの姿と重なっていた。パウロ自身は、キリストに似る者としての歩みを、一歩一歩進んでいる自分を自覚していたと思われる。(コロサイ1:24)
私たちは、今朝、自分の心に問いたい。それぞれが、主イエスを信じる信仰に踏み出した時のことを思い出して、その時、主ご自身がどのように、働きかけて下さったのかを思い返したい。ごく自然に踏み出した人、また、実に様々な遠回りをした人もおられるに違いない。けれども、信じられないでいた自分が、ある時、フッと踏み出すきっかけを得て、確かな信仰の歩みに導かれた筈である。その幸いを思い返すなら、きっとパウロの思いを共有できるに違いない。今まだ迷っている方がおられるなら、ぜひ踏み出すことをお勧めする。私たちの信仰の大事な一面、それは、神に従うこと、神に全面的に身を任せることである。パウロは、それまでの背きの罪を悔い改めて、神に立ち返ったのであった。私たちも、その同じ信仰に立つことの幸いを覚えて、この週も歩ませていただきたい。(マタイ11:28)
※今朝、転入会式が備えられていることを感謝したい。誓約の個条に耳を傾 け、自分の信仰を省みることが導かれように。
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