礼拝説教要旨(2017.02.26)
 キリストが私のうちに生きておられるのです
(ガラテヤ2:15-21)村瀬俊夫師

 今月で米寿となった私は、68年余の信仰生活を振り返り、何が大切であるかを総括している。その間に50年余の牧師を務めた時期(1953-2003年)があった。牧会一筋ではなく、かなり色々なことに関与した我が儘な牧師だったので、よく一つの教会の牧師を半世紀も務められたものだと思う。私が開拓した教会であり、[信徒も牧師も]よく忍耐したからであろう。牧会伝道30年目に転機があり、霊的な面に視界を広げられた。アシュラム運動に導かれ、信仰生活における霊性の重要性を体得できたことは、晩年の牧会生活を実りあるものとしてくれた。おかげで平穏に[余力を残して]牧師職を辞し、今は三代目の牧師の時代であるが、その教会に行くと温かく迎えられている。

 キリスト教の霊性の根幹は、聖霊による《キリスト現臨》の体験である。そのことを使徒パウロは、ガラテヤ2:19-20に、感動的な告白の言葉で記している。ガラテヤ書は私が40代前半に『新聖書注解新約の部』 (全3巻)に注解を書いた思い入れの深い書で、2:16に信仰義認の教理が明確にされていることで知られている。この教理のおかげでキリスト教はユダヤ人の垣根を越え、私たち異邦人、そして日本人、いや万人のものとなった。この教理を16世紀に再発見したマルティン・ルターによって宗教改革運動が展開した。その記念すべき年(1517年)から今年でちょうど500年になる。
 人が救われるのは、「律法の行い」によるのではなく、「キリスト・イエスの信仰」による。律法の行いによって救われる者は一人もいない。そのことが2章16節に明記されている。そのように書いたパウロは、律法の行いで救われると確信していたパリサイ人の中のパリサイ人であった(→1:13-14、ピリピ2:5-6)。そのパウロが、なぜこのように変わったのか。その鍵は彼の劇的な回心にある。十字架につけられたままのイエス・キリストを目に前に示されたのだ(→3:1)。それで彼は十字架につけられたままのキリストを福音(十字架のことば)として宣教した(→コリントT1:18-2:2)。こうしてパウロは、[神に生きるために]「十字架につけられたままのキリストと共に私も十字架につけられたままである」と悟るに至った(20節a)。
 このことが19節に「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました」と書いていることの説明であり、20節後半につながるのである。大事なのは、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」(20節b)という現実である。この彼(私)のうちに生きている復活のキリストは、もちろん「十字架につけられたままのキリスト」であるが、「彼(私)を愛し彼(私)のためにご自身をお捨てになった神の御子」(20節c)と言い換えている。《十字架につけられたままのキリストが復活のキリストである》という逆説が成り立つのは、神が「十字架につけられたままのキリスト」をそのまま[弱さと愚かさのまま]受け入れてくださったからに他ならない。
 パウロは悟った。私たちも悟りたい。神の弱さは人間の強さよりも強い。神の愚かさは人間の賢さよりも賢い。神の弱さと愚かさの極みと思われた十字架につけられたままのキリストが、実は、人を生かして救う神の力、神の智恵の表れである。このキリストがパウロのうちにだけでなく、私たちキリスト者のうちに生きておられる。もはや私が生きているのではない。このキリストが私のうちに、皆さん一人一人うちに生きておられるのである。私は、このキリスト現臨の確信がキリスト教信仰の要である、と思っている。
 そして、もう一つ大切な点に触れたい。この確信を与えられるのは、聖霊の助けと導きによる。それでガラテヤ書でも、パウロは力強く「聖霊によって歩みなさい」と勧めている(5:16)。「現に私たちが聖霊によって生きているのなら、聖霊によって進もうではありませんか」(5:25)。十字架につけられたままのキリスト現臨の信仰に生きる者は、聖霊によって神の愛が豊かに注がれていることを体験するのである(ローマ5:5)。キリストの現臨こそ、神が私を愛しいてくださっていることの最大の証しである。
 結びに強調したいのは、現臨のキリストにあって私たちは、もはや「律法の下にはなく恵みの下にある」(ローマ6:14)、ということである。十字架につけられたままのキリストは、「律法の終わり」となって(ローマ10:4)、罪の律法から私たちを解放してくださった(ローマ8:2)。それで私たち[十字架につけられたままの]キリストにある者は[このキリストが私たちのうちに生きておられるので]罪に定められる(断罪される)ことが決してない(ローマ8:1)。この恵みを味わい知るキリスト者にふさわしいのは、喜びと感謝と讃美である。