礼拝説教要旨(2017.02.19)
キリストの証人となったパウロ
(使徒の働き 26:1〜23)
 
 総督フェストの計らいで、アグリッパとベルニケのいる講堂に連れ出されたパウロであった。大いに威儀を整えたアグリッパが、「あなたは、自分の言い分を申し述べてよろしい」と言ったのを受けて、パウロは、「手を差し伸べて弁明し始めた。」(1節)「アグリッパ王。私がユダヤ人に訴えられているすべてのことについて、きょう、あなたの前で弁明できることを、幸いに存じます。・・・」(2〜3節)パウロは、アグリッパがユダヤ人の慣習や問題に精通していることを知っていた。そのアグリッパが、パウロの話を聞きたいと、自分を呼び出していたので、「どうか、私の申し上げることを、忍耐をもってお聞きくださるよう、お願いいたします」と語り始めた。今、この時が、キリストの証人として、主が備えて下さった機会と。

1、カイザリヤに連れて来られてからの二年は、何ら事態が進展しないまま、ようやくこの機会を迎えていた。主イエスは弟子たちに、迫害の時が来ることを告げ、その時、どう答えるのか心配しないよう、励ましておられた。今まさにパウロは、そのような時を迎えていた。(ルカ21:12-15、マタイ10:16-20)落ち着いて語り始め、しかも目の前にいるアグリッパに、しっかり聞いて欲しいと願いを込めた。話の中心は、パウロの回心の出来事であった。使徒の働きで、9章、22章に続き、三度目の記述となり、王と総督の前での弁明として、詳しく丁寧に語られている。彼は、ユダヤ人として、最も厳格な派であるパリサイ人として歩んで来たこと、神が約束されたものを待ち望んでいること、それは「神が死者をよみがえらせる」という望みであり、「この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです」と、論点を整理して語った。ユダヤ人たちが神を信じ、神に望みを託して歩んでいたのは事実であった。けれども、神が死者をよみがえらせると信じながら、十字架で死なれたイエスがよみがえったとは決して信じなかった。これはパウロ自身のことでもあった。(4〜8節)

2、「以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。・・・」と語り、激しい怒りに燃えた自分がいたこと、その自分に、ダマスコ途上でイエスが現れ、私を証人として遣わして下さったので、人生が大きく方向転換したことを、心を込めて語った。天からの眩い光に照らされ、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである』との声を聞き、『あなたを奉仕者、また証人とするため・・・遣わす。』と告げられ、人々の『目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、・・・罪の赦しを得させ、御国を受け継がせるためである。』と、主ご自身のご計画を知らされたのであった。「こういうわけで、アグリッパ王よ。私は、この天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えて来たのです。」イエスが現れ、私を召して、遣わされたので、私は、その時から主イエスに従った。これ以外には何もなく、聖書に従い、その根本の教えを話すのみ・・・と。「すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです」と。(9〜23節)

3、パウロが劇的な回心をしたこと、それが全てであった。信じない者が信じる者になったのは、死からよみがえったイエスが、パウロに現れ、「あなたを奉仕者、また証人に任命するため・・・」と言われたことを、パウロ自身が受け止めたからである。彼がイエスを信じ、イエスに従おうとしたことは、「私は、この天からの啓示にそむかず」と語ったことに言い表されている。多くのユダヤ人が、決してイエスの復活を信じない中で、パウロは信じる者となった。それは、イエスご自身が現れ、これからのご計画を告げて下さったことを、「天からの啓示」として受け止め、これに従ったからである。結局、信じない人と信じる人の差は、神からの働きかけを受け入れない人なのか、受け入れる人なのか、この違いとなって表れる。パウロは、イエスを決して信じないと言い張っていたが、それは、神を見ることのできない暗黒の中に、全く沈み切っていた時のことである。けれども、イエスにお会いして、彼自身が暗やみから光に移され、サタンの支配から神に立ち返る幸いを得たのである。こうして、パウロは、多くの人々を神に立ち返らせ、イエスを信じる信仰によって、罪の赦しを得させ、御国を継がせるため、キリストの証人となって生きる者となった。イエスの復活がなかったら、パウロの働きは有り得なかったのである。(コリント第一15:16-20)

<結び> パウロは、自分自身の人生の大転換を思い返しつつ、熱弁を振るった。その余りの熱弁ぶりに、フェストはたまりかねて「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている」と叫ぶほどであった。24節以下は次回に触れるとして、私たちは、パウロがイエスを信じる者となった、その肝心なところは何であったのか、そのことに目を向けたい。それは、「あなたを奉仕者、また証人に任命するため」と言われた主イエスが、「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らの中に遣わす。それは彼らの目を開いて暗やみから光に、・・・」と言われたことを、「天からの啓示」と受け止め、これに「そむかず」と、神に従うことを最も重要な事柄としたことである。彼はそのようにして、キリストの証人となったのである。

 私たちが学ぶべきことは、神が示して下さること、私たちに分らせようとして下さることに対して、私たちの心を開くことである。神は、私たちの心の目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせようと、いつの時代も、聖書を通し、また教会を通して、手を差し伸べておられる。全ての人に、イエスを信じる信仰によって、罪の赦しを得させようと、そして、天の御国を受け継がせようと、招いておられる。自分の罪を認め、悔い改めて神に立ち返るのは、神の招きと導きを知って、心から従う人、その人である。神は、私たち一人一人を、パウロと同じように、イエス・キリストの証人としようとしておられることを、心に刻んで、この週も歩ませていただきたい。
(テモテ第一1:15、2:4-7)