カイザリヤの地で、二年に渡って牢につながれたままであったパウロは、総督の交代によって新たな局面を迎えることになった。ペリクスはユダヤ人に恩を売ろうとパウロをつないだままにし、パウロからは金をもらいたいと呼び出してはいても、結局は何も解決できないままであったが、フェストは総督に着任するや、早速エルサレムに行き、自分の務めを的確に果たそうとした。ユダヤ人の指導者である大祭司も、この二年の間に交代していたが、パウロに対して怒りを燃やすユダヤ人たちはこぞって、パウロを取り調べのためエルサレムに呼び出してほしいと懇願した。彼らは今もなお、パウロ殺害の計画を練り、その機会を窺っていた。フェストは、パウロのことはカイザリヤで裁きの場を設けると言って、十日ばかりの滞在の後、帰路に着いた。(1〜6節)
1、カイザリヤに戻ると、翌日、フェストは裁判の席に着いて、パウロの出頭を命じた。前任者が残した案件を、迅速にこなす様が読み取れる。早速、ユダヤ人たちによる罪状の申し立てがあったが、「それを証拠立てることはできなかった。」(7節)これに対して、パウロは弁明して、「『私は、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、何の罪も犯してはおりません』と言った。」(8節)両者の言い分を聞いたフェストは、ユダヤ人の歓心を買おうとしながら、パウロに尋ねた。「『あなたはエルサレムに上り、この事件について、私の前で裁判を受けることを願うか』」と。ユダヤ人たちを治めるためとはいえ、この裁判の決着は難しいと感じたからである。パウロは間髪を入れず、「『私はカイザルの法廷に立っているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。・・・』」と答え、結局、カイザルへの上訴を申し立てた。最早、ユダヤ人の手によらない法廷に、はっきり移してほしいと願って、この願いは叶えられた。(9〜12節)
2、カイザルへの上訴が決まり、一段落した時、新任総督に敬意を表するためやって来たのは、アグリッパ王とベルニケであった。(13節)ペリクスの妻ドルシラの兄のアグリッパ二世とその妹である。アグリッパはガリラヤとペレヤを治め、当時、二人は夫婦のように行動を共にしていたという。ペリクスとドルシラ夫婦と同じように、「この道」には無関心ではいられなかった二人である。フェストがパウロの一件を持ち出し、どう取り調べたらよいか、見当がつかないと言ったのを受け、「『私も、その男の話を聞きたいものです』と言った。」(14〜22節)話はたちまち進んで、次の日パウロは、アグリッパとベルニケのいる講堂に連れて来られた。そこには千人隊長や市の首脳者たちもいて、かなりの人のいる前でパウロを取り調べ、上訴に当たっての罪状を見つけたいと言った。実際のところは、見つけてほしいと、アグリッパに頼んでいた。彼は、パウロには何一つ罪は認められず、皇帝に「書き送るべき確かな事がらが一つもない」と、困り果てていたからである。(23〜27節)
3、けれども、パウロが何を語り、何を信じているのかについて、一連の裁きを通して、フェストには概要が見えたようである。「『・・・訴える者たちは立ち上がりましたが、私が予期していたような犯罪についての訴えは何一つ申し立てませんでした。ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。・・・』」(18〜19節)エルサレムから続くユダヤ人たちとパウロの争いの中心にあるのは、死んだ筈のイエスが生きていると言う、パウロの主張を巡ってである、とフェストは見抜いた。それは、パウロ自身が切に訴えたことであった。「私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けている」という言い分(23:6)、また「義人も悪人も必ず復活するという・・・望み」(24:15)、更には「やがて来る審判」も(24:25)、それら全ては、イエスが死から復活されたからこそ意味があり、心に留めるべき事柄なのである。パウロはずっと、イエスは死からよみがえり、私に現れ、語り掛け、罪の赦しの福音を宣べ伝えるように、私を遣わして下さった・・・と弁明し続けていた。その主張を、フェストは確かに聞き取っていた。けれども、彼は、パウロの語ることを、一つの主張と受け取り、その主張に対して、自分はどうするのか、どう答えるのか、それがさっぱり分らないと嘆いていたのである。
<結び> パウロは、終始一貫して、何の躊躇いもなく、「イエスが生きている」と語り、イエスの証し人として生きていた。いつでも、どこでも、「イエスは生きておられる」と。イエスが十字架で死なれたのは、だれもが知る事実であった。しかし、そのイエスが三日目によみがえり、弟子たちの前に現れ、やがてパウロにも現れたのである。このイエスが生きておられるので、弟子たちの行く先々で、様々なことが起こった。パウロにしてもペテロにしても、弟子たちはみな、生きておられるイエスに押し出されるようにして、十字架と復活のこと、罪の赦しの福音を宣べ伝えたのである。イエスが生きておられるので、どんな恐れにも立ち向かうことができた。生きておられるイエスが、パウロを守り、パウロと共に歩んでおられたからである。
(ローマ3:23-24、ガラテヤ2:20)
私たちは、今一度、自分が何を信じて、何を頼りとして生きているのか、しっかり問い直してみたい。私たちは何を信じているのか、一体、何を頼りとしているのか。「イエスは生きておられる」と心から信じて、このイエスを頼りとして生きているだろうか。この世で、自分の都合のよいように、イエスを呼び、神を呼んではいないだろうか。すなわち、私にとっての助けとしてのみ、神を呼ぶことを、私たちもしかねない。主の日ごとに、主イエスの復活を記念して礼拝をささげること、この尊さを覚えたい。心から従うべきお方として神を仰ぎ、「イエスは生きておられる」との確信をもって、イエスを証しする歩みが導かれるように。周りの人々に、私たちの信仰の証しが届くように。
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