礼拝説教要旨(2017.02.05)
目覚めた良心をもって
(使徒の働き 24:1〜27)

 エルサレムの宮で捕えられ、ユダヤ人たちに殺されそうになったパウロは、ローマの兵士たちによって保護されるようにして、結局、ローマ総督の官邸のあるカイザリヤへと移された。その前夜、主はパウロに告げておられた。「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムで私のことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」(23:11)パウロは、主なる神の御手の守りを確信したに違いなかった。一夜明けて、事態の展開は目まぐるしく、パウロは、兵士たちにより連れ回されることになったが、神の御手の守りは万全であった。パウロは、甥の存在、千人隊長の冷静な判断、また総督ペリクスの好意にも助けられていた。周りの人々を用いて、神はご自身の助けをパウロに与えておられた。

1、カイザリヤに着いて五日後、大祭司アナニヤは、数人の長老たちとテルトロという弁護士を伴ってやって来て、総督ペリクスに訴えた。正式な裁判の形を整えるためか、パウロが呼び出されると、テルトロが口を開き、「この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人という一派の首領でございます。この男は宮さえもけがそうとしましたので、私たちは彼を捕えました。・・・」と語った。パウロがどれだけ危険人物かを印象づけようと、「ペストのような存在」と言った。また、イエスをキリストと信じる一派の「首領」とも。そして、「宮さえもけがそうとしました」と言って、騒動を未然に防いだかのように語った。総督の歓心を得ようとしたわけである。(1〜9節)これに対して、パウロは反論した。エルサレムへは礼拝のために行ったことであり、騒ぎは起こっていないと告げ、イエスをキリストと信じる「この道」こそ、旧約聖書を信じて神に仕えることと言い、宮では清めを受けていただけと語った。(10〜19節)

2、パウロの反論には、訴え出ているユダヤ人たちに、確かな証言や証拠はないはずとの指摘があった。そして「ナザレ人という一派の首領」との訴えについては、丁寧に反論している。旧約聖書を信じて「私たちの先祖の神に仕えている」「この道」は、「善人も悪人も必ず復活するという・・・望みを、神にあって抱いている」もので、「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています」と、心を込めて語るのであった。更に、「善人も悪人も必ず復活する」ことに関して言えば、議会において、「私はただ一言、『死者の復活のことで、私はきょう、あなたがたの前でさばかれているのです』と叫んだにすぎません」と語り、ナザレ人のイエスが死からよみがえったことを巡って、それを信じるのか、信じないのか、認めるのか、認められないのか、事は「この道」そのものに関わることである、と迫ったかのようである。そのためか、ペリクスは、少々判断を棚上げすることにし、裁判を延期することにした。パウロを監禁するものの、ある程度の自由を与えて時間稼ぎをしたのである。(20〜23節)

3、ペリクスは、パウロの弁明を聞きながら、争点は「この道」のことと気づいた。それは、イエスをキリストと信じる信仰のことであると。「この道について相当詳しい知識を持っていたので・・・」(22節)彼の妻ドルシラはユダヤ人で、父はヘロデ・アグリッパ一世であった。そのアグリッパは使徒ヤコブを殺害し、ペテロを捕えて迫害の意に燃え、そして驕り高ぶった時、神に打たれ、虫にかまれて死んだのであった。その時はまだ六歳だった。以後波乱の人生を歩む中で、彼女は、イエスをキリストと信じる信仰について、決して、無関心ではいられなかったものと思われる。こうしてペリクスは妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、「キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた」のである。パウロはこの時を逃さず、ずばり「正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、『今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう』と言った。」(24〜25節)ペリクスは妻と共に、イエスをキリストと信じる信仰に関心を示した。彼は彼なりに、良心を研ぎ澄まして、パウロが語ることに耳を傾けた。パウロは、人が生きる時、心すべきは神の前に正しく生きることであり、神の前に慎ましく生きることであると、そして、やがて来る神の審判に耐え得る生き方をするかどうか・・・と説いた。ところが、その審判ということに恐れをなして、ペリクスは自分の答えを先送りすることにしてしまった。パウロの話を聞く余裕は持ち合わせていたものの、自分の答えは棚上げしたのである。(26〜27節)

<結び> 「私は、いつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています」と言ったパウロに対して、大事なことを聞かされて、心を動かされたにも拘らず、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」と言ったペリクス、この二人の姿は対照的である。神の前にあって、目覚めた良心をもって生きるパウロと、良心はあっても、やや鈍ったままのペリクスである。「やがて来る審判」に恐れを感じたペリクスの姿は、とても教訓的である。全ての人が、神の審判の前に立たされることを知ったので恐れたからのである。問題は、自分の答えを棚上げしたことにある。彼に、もう一度のチャンスは巡って来なかったようである。良心的に生きるより、この世での損得を考えて生きることを優先したからである。パウロを呼び出して話を聞きながら、下心を満たそうとしていた。二年後、彼はその任を解かれている。

 私たちは、パウロの生き方こそ見習うべきと心したい。神の前に「やがて来る審判」のあることを知って生きること、そのことを知るからこそ、人の前にも、心して生きる者であるように、目覚めた良心をもって生きることを導かれたい。イエス・キリストを信じる信仰をもって生きることにおいて、やはり、今日という日に、はっきり信じることの尊さがあり、聞き従うことに尊さがある。いつでも、どこでも、どんなことでも、神の御声を聞いたなら、その神の前に進み出ることができるよう、私たちの信仰が整えられるよう祈りたい。
(※ヘブル 9:26-28、3:7,14-15)