礼拝説教要旨(2017.01.29)
神の御手の守り
(使徒の働き 23:12〜35)

 エルサレムの宮で捕えられたパウロは、民衆に語り掛けるのを許され、自分は、神に対して熱心な者として生きて来たと弁明した。その自分がナザレのイエスに出会ったことにより、生き方が大きく変わったと語り、イエスを信じて罪の赦しを与えられ、このイエスこそキリストとの証しを、全ての人、特に異邦人へと宣べ伝えていると語った。ところが、またまた騒乱状態となり、千人隊長がパウロを引き取り、むち打ちによって取り調べをしようとしたものの、パウロがローマ市民であることが分かって、議会での裁きとなった。議会でパウロは、「私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました」と切り出し、反発する大祭司と相対した後、「私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです」と語って、イエスの復活に触れた。議会はパリサイ派とサドカイ派の論争となり、収拾がつかないまま、パウロは兵営に保護されたのであった。

1、主イエスが「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と言われたのは、その日の夜のことであった。大騒動は二日に及んでいた。身体も心も休まる間のないまま、ようやく一息つくことができたのに違いない。主イエスの励ましは確かで、「勇気を出しなさい」との一言が、パウロの心に響いたことであろう。ずっと以前より、福音をローマにも届けたいと願っていたパウロは、「ローマでもあかしを・・・」と告げられ、必ずローマに行けると確信したに違いない。彼の心には、安堵の思いが溢れたと思われる。ところが、パウロに敵意を抱くユダヤ人たちの怒りは、ますます燃え上がっていた。「パウロを殺してしまうまでは飲み食いしないと誓い合った」ユダヤ人たちは、四十人以上もいた。彼らは祭司長たちや長老たちのところに行って、自分たちの計画を告げた。パウロのことをもっと詳しく調べるふりをして、彼を連れて来るよう千人隊長に願って欲しい。彼が出て来たら、そこで彼を殺す手はず・・・と。失敗の許されない殺害計画を、必ずやり遂げると言うのである。(12〜15節)

2、この殺害計画は、不思議にもパウロ本人の知ることになった。パウロの姉妹の子、甥になる「青年」がこのことを耳にし、パウロに知らせたからである。パウロは兵士たちの良識を信頼し、「『この青年を千人隊長のところに連れて行ってください。お伝えすることがありますから』」と頼んだ。千人隊長は、ことの重大さを感じたのか、慎重に、かつ丁寧に対応した。彼は事態をよく理解したようである。直ちに二人の百人隊長を呼び、今夜中のカイザリヤへの出発を命じ、パウロを総督ペリクスのもとに送り届けるようにした。彼は、ローマ市民であるパウロを、ユダヤ人たちの陰謀から守り、総督のもとへ送り届け、そこで正式な裁判をしていただきたいと、自分の手柄も立てたいと考えたのである。「死刑や投獄に当る罪はない者を保護した・・・」とばかりに。こうしてパウロは、夜の内にアンテパトリスまで移送され、翌日、騎兵たちによってカイザリヤまで護送され、総督に引き合わされた。パウロ一人のため、五百人近い兵士たちが、極秘のように行動していた。彼は丁重に送り届けられ、カイザリヤでも、訴える者の到着まで保護されていた。(16〜35節)

3、移送される前日の夜、主が語って下さった後は、直接的な主の働きかけはなく、御使いが現れることも、幻を見させられることもなく、緊迫した状況が続くばかりである。パウロ殺害の陰謀は、かなり大規模で、周到である。パウロ一人が覚悟しても、それで乗り越えるのは難しいものであった。千人隊長の決断と実行がなければ、パウロのいのちは尽きていたかもしれない。四十人以上の荒くれたユダヤ人たちに対して、五百人近い兵士たちが整えられてパウロは守られた。歩かされるのでなく、馬も用意され、騎兵たちの護送も万全であった。神の御手の守りは、かくも十分で、確かなものなのである。直接的なことがないから、神は御手を差し伸べておられないわけではない。私たちの目に何も見えないから、神はおられないのではない。私たちの目に何も見えなくても、神は確かにおられ、確かな御手を差し伸べて下さるのである。直接的に手を差し伸べなくても、周りにいる人々を動かし、その人々を通して助けを与えて下さることが、必ず備えられている。私たちに備えられている神の助け、確かな守りは、そのように人々を通しても届けられるのである。

<結び> 「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇121:1-2)パウロを守られたのは、天と地を造られた神ご自身であり、神が遣わされた救い主イエス・キリストであられたのである。私たちにも、パウロと同じように、神の御手の守りのあることに気づいているだろうか。

 新しい年、早くも一か月を過ぎようとしている。それにしても、この地上の日々の現実には、ありとあらゆる恐れや不安が満ちているのも事実である。世の人々だけでなく、私たち教会に集う一人一人も、それぞれ恐れや不安があり、ちょっとしたことで心が騒ぐ、そんな日々を過ごしている。ついつい、神が直接手を伸べて下さったら、どんなに助かることかと、そんな思いをすることはないだろうか。目に見えるように、また耳に聞こえるようにして助けて下さるなら・・・と期待してしまう。けれども、神の御手の守りは、多くの人々を通しても届けられるのである。すなわち、いつ、いかなる時にも、神の御手の守り、また助けは万全なのである。私たちは、そのことをしっかり心に刻みたい。私たちの方から、周りの人々を尊敬し、信頼することも大事なことである。神を信じ、神を信頼するからこそ、周りの人々とも良い関係を築けるのが、私たちクリスチャンの幸いである。パウロはそのような幸いの中で、一歩また一歩、ローマへと導かれていたのである。