礼拝説教要旨(2017.01.22)
天国市民として生きる
(使徒の働き 22:22〜23:11)

 エルサレムの宮で、反目するユダヤ人たちによって捕えられたパウロは、宮の外に引きずり出され、今にも殺されそうになった時、千人隊長に率いられたローマ兵が到着して、そのいのちは守られた。兵営に連れ込まれる前、民衆に語り掛けるのを許された彼は、自分が正統派のユダヤ人であること、また、律法に従う者として、神に対して熱心な者として生きてきたと、丁寧に弁明した。そして、その自分に大きな転機があったこと、ナザレのイエスに出会って、この方こそ信ずべき救い主と、はっきり知らされたことを告げた。十字架で死なれたイエスがよみがえって生きておられると分り、罪の赦しをいただき、この方の証人とされ、異邦人に遣わされることになったと、懸命に語るのであった。罪を赦される喜びは万民に伝えられるべき福音と、心から信じたからである。

1、ところが、それまでは静かに聞いていた民衆は、「異邦人」という言葉に反応するかのように、「このとき声を張り上げて、『こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない』と言った。」(22節)反発は、パウロが罪を洗い流すよう導かれたと語る時、また異邦人に遣わされたと言う時、ユダヤ人たちは、自分たちの罪が責められていると気づいたからである。彼らの誤った選民意識がそうさせるのか、パウロが語ることも、行うことも気に入らないとばかり、またまた大騒ぎを起こした。困った千人隊長は、パウロを兵営に引き入れ、なぜこんな騒ぎになるのか、むち打って取り調べさせようとした。民衆の機嫌を伺いながら、パウロを縛ったものと思われる。しかし、この時パウロは毅然として、そばにいた百人隊長に言った。「『ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、むち打ってよいのですか。』」当時の社会において、ローマ市民はむち打ちの拷問を免れるよう定められていた。パウロは、不当なことが行われて良いのか、そのことを問うた。窮地に追い込まれていたが、彼は、なお冷静であった。他方、慌てたのは千人隊長であった。パウロの鎖を解いて、裁きをユダヤ人の議会に委ねようとした。(23〜30節)

2、このようにして、ユダヤ人の議会に連れ出されたパウロは、改めて弁明の時が与えられた。けれどもパウロは、同じような弁明を繰り返すのでなく、いきなり「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました」と、さらっと言い切った。(1節)最早、何ら弁明することもなく、神の前に、恥じることなく生きて来ましたと言った。「神の前に生活して来ました」という意味は、パウロ自身は、この世ではローマ市民であっても、それよりも、神の国の民として、天国の市民として生きて来た、ということである。まるで議会の前に立たされながら、誰からもとやかく言われる筋合いはないと。怒った大祭司は、パウロの口を封じさせようとした。しかしパウロは、更に鋭く反論してやり合い、議会を構成するサドカイ人とパリサイ人を意識して、「『・・・私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです』」と、肝心なことは、イエスの十字架と復活にあることを暗示した。議会は、サドカイ派とパリサイ派の論争となり、ますます収拾がつかなくなり、千人隊長は、またもやパウロを保護するはめとなった。パウロは、議会でもみくちゃにされたが、兵士たちに守られ、兵営へと戻された。(2〜10節)

3、宮で捕えられてからのパウロは、いのちの危険に晒されながら、自由を奪われ、あちこち引き回されている。弁明の機会を与えられ、語るべきことを語りながら、その内容は、かなり変化の激しさがある。パウロの心には、動揺や迷いもあったのだろうか。一連のパウロの姿には、いろいろと解釈が分れている。必死の弁明に、やや無理があるのではないか・・・等々。けれども、人が何と言おうと、主イエスご自身は、彼を認め、励ましておられた。「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかししなければならない』と言われた。」(11節)この二日間の自分の言動を思い返し、確かに、主を証しできたかどうか、間違った行動はなかったかと、反省することもあったに違い。「全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました」と言ったが、その言葉通りに、今日も生きたかどうか、自らを振り返るのである。そのような時に、主が彼を励ましておられた。主イエスは、「あなたは、今日も、わたしの前に、確かな証しをもって生きていた。あなたは、ローマでもわたしを証しすることになる」と断言し、彼を力づけたのである。

<結び> パウロの姿から教えられることは、この世で生きる時、私たちも、誰を恐れ、誰に従い、誰に喜ばれることを第一としているのか問いながら、第一とすべきことを明確にすることである。「私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」パウロは、決してユダヤ人たちに妥協しようとしたり、また弁解しようとしていたのではなかった。むしろ、いつ、いかなる時も、主イエスの証しのために、心から罪の赦しの恵みを宣べ伝えたいと、言葉を選んでいた。多くの民衆たち、ユダヤ人を前にしては、自分と同じように罪を認めて、神に立ち返ることを勧め、それでも心を頑なにする人々とは、決別するしかなかったのである。それ故に、頑なな指導者たちに対しては、最早、きっぱりと対峙するしかなかった。この世の権威には、それこそ怯むことなく、堂々と渡り合っていた。

 私たちがどのように生きるのか、全ては主が見ておられることを覚えたい。天に国籍がある者、天国市民として生きること、それが私たちが選び取る生き方となるように。今年、私たちは特にそのことを覚えて生きること、歩むことを導かれたいと思う。(ピリピ3:17-21)新会堂の建設がいよいよ明確となっている。そこに集う一人一人が、主イエス・キリストを信じる者として、「全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました」と、その証しが周りの人々の目に留まるよう、祈りたいと思う。