礼拝説教要旨(2017.01.15)
罪を赦される喜び
(使徒の働き 21:37~22:11)

 エルサレム教会に連なるユダヤ人クリスチャンたちの誤解を解くため、パウロは、自分も律法に従う者であることを人々に分かってもらえるようにと、誓願を立てていた四人とともに、自分も身を清めて宮に入って行った。ところが、その清めの期間が終わろうとする時、アジヤから来たユダヤ人たちにより、パウロは捕えられ、大騒動の中で、そのままでは殺されるほどの危機にさらされてしまった。ようやく千人隊長が駆けつけ、騒ぎは収まったものの、パウロは鎖につながれ、兵士たちにかつがれ、兵営へと連れて行かれた。ギリギリのところで、神は御手を差し伸べておられた。パウロ自身も、騒乱の中にあって、神を信じ、神に身を委ねていたものと思われる、そんな場面である。

1、冷静なパウロは、エルサレムの宮の一角にある兵営に連れ込まれようとした時、その前に民衆に向って、一言話したいと申し出た。この時、パウロがギリシヤ語で語りかけたのを聞いて、千人隊長はやや心を許すかのように問うている。「・・・するとあなたは、以前暴動を起こして、四千人の刺客を荒野に引き連れて逃げた、あのエジプト人ではないのか。」彼は、もしやこの男が、あの暴徒か・・・と捕えたものの、どうも別人らしいと思ったようである。パウロが「わたしはキリキヤのタルソ出身のユダヤ人で、れっきとした町の市民です」と言うのを信用して、人々に話すのを許した。パウロは守られ、その願いは受け入れられ、妨げられることなく、思うことを存分に語ることを許された。階段の上に立ち、民衆に手を振り、人々を引きつけながら、ヘブル語で話し始めた。「兄弟たち、父たちよ。いま私が皆さんにしようとする弁明を聞いてください」と。(21:37~22:1節)

2、先ずは自己紹介から始め、タルソ生まれのユダヤ人で、エルサレムで育ち、有名なガマリエルのもとで律法について厳格な教育を受けたこと、皆と同じように、神に対して熱心な者であったことを語った。(2~3節)何ら問題とされることのない正統派のユダヤ人であったのである。その熱心は、「この道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせた」(4~5節)ほどであった。ところが、そんな自分に一大転機が訪れたことを告げる。この道の者への迫害の意に燃えて、ダマスコに向かう途中、突然、天からのまばゆい光に照らされ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」との声を聞き、続いて「わたしは、あなたが迫害するナザレのイエスだ」と言われた・・・と。ナザレのイエスが十字架の死からよみがえったとは、とても信じられず、イエスの復活など、とんでもない教えと、パウロは思い続け、これを退けていたのである。けれども、そのイエスが現れ、声をかけ、ダマスコに行くように命じられ、アナニヤというユダヤ人の間で評判の良い人に会い、人生が一変したのであった。イエスの御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流す恵み、すなわち、罪の赦しを確かにいただく幸い、大喜びする恵みを知ったのであった。(6~16節)

3、主イエスに出会い、この方を信じてからは、イエスは神の子であると宣べ伝え始めたパウロに対して、ユダヤ人の反目や反発が激しくなる時、主イエスご自身が「急いで、早くエルサレムを離れなさい。人々がわたしについてあなたのあかしを受け入れないからです」と、はっきり命じて下さったのであった。(17~18節)かつての自分を振り返るパウロに、一層はっきり「『行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす』」と言われた。(19~21節)そのようにして、私は異邦人に福音を伝えるよう導かれたと、パウロは弁明したのである。使徒の働き9章の回心の記事は、パウロのことが三人称で記されている。この22章では、一人称で記されている。パウロが懸命に語る、その様子が目に浮かぶ。彼の心に迫る思いは、どのようなものであっただろうか。何としても語りたかったのは、十字架で死なれたイエスが、よみがえって生きておられること、この方こそが信ずべきお方、救い主キリストであること、この方を信じて罪を赦された喜びは、途方もなく大きく、この方のことを宣べ伝え、この方のために、私は「見たこと、聞いたことの証人」とされている・・・と、何としても伝えたい思いが溢れていた。かつて迫害者であった自分が、今は、迫害される側になり、激しい反発にさらされている不思議を思いつつであった。

<結び> パウロの心の内を思う時、かつての律法に厳格に従いながら、神に対して熱心であった時の自分と、十字架で死なれたイエスがよみがえって生きておられることが分かり、このイエスを救い主と信じた後の自分を、事あるごとに、その違いを思い返していたのではないか・・・と、そのように思う。パウロが気づいたのは、律法の定めをどんな厳格に守っても、それによって人間が聖くなることはなく、正しくなれるわけではないこと、すなわち、人間の罪はどうにもならない位に、私たち人間を悩まし、苦しめている事実である。戒めを守れないのが、私たちの罪に現実なのである。(ローマ3:10、20)どんなに行いと積んだとしても、それで正しいとされることはない。ただ一つ、神によって、罪を赦していただくこと、それ以外に救いはない。神が備えて下さった救いの道は、イエス・キリストによる十字架の贖いを信じることである。パウロは、この救いを得た喜び、罪の赦しをいただいた喜びを、全ての人に対して告げ知らせようと、その生涯をささげたのである。(ローマ3:23-24、6:23)

 私たちは、パウロと同じ経験をするわけではない、同じ務めを果たすのでもない。けれども、私たちも、恵みにより、信仰によって救いに与るのである。十字架で身代わりの死を遂げて下さった主イエスを信じて、罪の赦しをいただくのである。(エペソ2:8)そして、罪を赦された喜びを大喜びすることになる。こうして、私たちがキリストに従う者として歩み、またキリストの教会の一員として歩む時、人々に何を証しすればよいのかを考えると、罪を赦される喜びを証しするのが、何よりも尊いことが分かる。教会に集いながら、私たちにとって何が大きな喜びなのか。それは、主イエスの十字架の死によって、私たちの罪が赦され、永遠のいのちが与えられることであると、気負うことなく、さりげなく証しできたら、何と幸いであろうか。年の始めにそんなことを思う。