「私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりか、死ぬことさえも覚悟しています」と言い切ったパウロは、多くの聖徒たちの心配や制止と振り切って、遂にエルサレムに到着した。主イエスの証しのためには、どこにでも出かけて行き、どんな恐れに包まれたとしても、この務めをやり抜こうとするパウロの姿が目に浮かぶ。パウロは諸教会からの献金や救援の品々を携え、キリストの教会は一つであることを具体的に経験できるように、異邦人のクリスチャンたちをエルサレムにいるユダヤ人のクリスチャンたちに引き合せたかったものと思われる。また、この時を逃すと次の機会はいつになるのか、危機感も抱いていたのかも知れない。エルサレムに着いた一行は、兄弟たちに喜んで迎えられ、次の日、エルサレム教会の指導者であるヤコブ(主の兄弟ヤコブ)を訪問することになった。
1、パウロを先頭にして、七、八人の一行がヤコブに面会した時、エルサレム教会の長老たちもみな集まっていた。やや緊張感の漂う対面のひとときであるが、パウロは、彼自身の奉仕を通して、「神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ話し出した。」ユダヤ人のクリスチャンたちと異邦人のクリスチャンたちの間で、一体何が問題となっていたのか、そこに集まった人々には、問題点は明らかであった。ユダヤ人の中で信仰に入った人々にとっては、旧約聖書の時代から続いている生活習慣に従うことは当然であり、とても大事な事柄であった。他方、異邦人で信仰に入った人々にとっては、十字架で身代わりの死を遂げた主イエスをキリストと信じることこそが大事であった。お互いが心を開いて、生ける真の神を信じ、主イエスを信じて、罪の赦しを喜び合うことができるのか、そんな心配があったのである。けれども、そんな危惧は吹き飛ばされた。パウロの話すことを聞いて、一行を迎えた人々は、神をほめたたえた。(17〜20節前半)キリストの教会の交わりにおいて肝心なのは、人が成した奉仕そのものではなく、人の奉仕を通して神が成して下さったこと、神の御業こそを語り合い、覚え合って、神をほめたたえることなのである。
2、そのようにして神をほめたたえた一同であったが、地上の教会には弱さがあり、欠けのあることは否めなかった。その場にいた一同は理解し合い、お互いを受け入れ合うことができたが、エルサレム教会の全体を思う時、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンが、互いに違いを認め合いながら、信仰の一致と交わりを喜び合うには、まだまだ心配なことがあった。多くのユダヤ人クリスチャンたちが、パウロの説く教えに疑問を抱き、彼はモーセにそむくように教えている・・・と誤解していたからである。それでエルサレム教会の長老たちは、パウロに提案をした。その提案の中心は、パウロも「律法を守って正しく歩んでいることが、みなにわかる」ように・・・であった。人々の誤解を解きたいという願いがあったが、福音理解の中心的事柄において、互いの歩み寄りの難しさが立ちはだかっていたことが分かる。この時、パウロは、その申し出を受け入れ、自らも身を清めて宮に入った。ユダヤ人として、律法に従うことに抵抗のないことを示そうとしたからである。(20節後半〜25節)
3、ところが、人が考えることは、なかなか上手く行かないものである。誓願を立てた期間の七日がほとんど終わろうとしていた頃、アジヤから来たユダヤ人たちが騒ぎを起こした。彼らは、エペソをはじめアジヤの諸教会での騒ぎを知っていたのであろう。パウロを見つけるや、「全群衆をあおりたて、彼に手をかけて、こう叫んだ。『イスラエルの人々。手を貸してください。この男は、この民と、律法と、この場所に逆らうことを、至る所ですべての人に教えている者です。そのうえ、ギリシヤ人を宮の中に連れ込んで、この神聖な場所をけがしています。』」(27〜28節)アジヤでのかたきとばかり、異邦人を宮に連れ込んだと騒ぎ立て、パウロを宮から引きずり出し、町中を混乱状態に陥らせた。その騒乱の中にあって、パウロが今にも殺されそうになった時、千人隊長が駆けつけ、ようやく騒ぎは一段落するのであった。人々は、さすがに兵士たちの登場を見て、自重するのであったが、めいめい勝手に叫び続けるので、千人隊長には、何の騒ぎか判別のつかない状態となっていた。とんでもない騒ぎの中で、パウロはひとまず保護されることになった。騒乱の中で命の危険を感じながら、神に身を任せていたのであろう。かつぎ上げられながら兵営に連れて行かれた時、そんな思いがしたのではないだろうか。(29〜36節)
<結び> 今回のエルサレム行は、周りの人々が心配した通りに、大騒動が勃発し、騒乱の中でパウロは身柄を拘束されることになった。分かっていたのに、なぜパウロはエルサレム行きを強行したのか、その理由は必ずしも明白ではない。けれども、パウロには、この時、何事があったとしても、神に従って、教会の一致と交わりのため、どうしてもエルサレムに行き、神が成して下さった御業を、全ての教会の喜びとして、共に喜びたいと思ったのである。それで目の前に迫る恐れにひるまず、ただただ前進していた。神を信じて、恐れなく前に進むパウロがいた。私たちは、そのようなパウロの姿、生き方を心に刻んで、私たちの生き方、神を信じて従う者の歩みの模範としたいのである。
神がパウロをなお生かそうとされる限り、パウロは必ず守られている。かつて石をもって打たれた時、人々がパウロを死んだものと思っても、彼は再び立ち上がって、福音を宣べ伝え続けていた。(使徒14:19-22)今、騒ぎの中で殺されかけた時には、千人隊長が駆けつけ、パウロは保護されている。神は、ご自身のご計画のまま、パウロを生かし、ご自身のためにお用いになるのである。この事実は、私たち一人一人の人生にも、そのまま当てはまることを覚えたい。
私たちの人生に何が起ころうと、神のご計画が成ることを信じて、神に任せ、また委ねる歩みが導かれるように。私たちがどこへ行こうと、主なる神は共にいますこと、何事が起ころうと、神の守りがあることを信じて歩ませていただきたいものである。
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