救い主がベツレヘムでお生まれになった夜、羊飼いたちは、「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」と、御使いが告げる喜びの知らせを聞き、すぐさま出かけ、飼葉おけのみどりごを捜し当てた。次に幼子に出会ったのは、エルサレムにいたシメオンとアンナという老聖徒たちである。それからしばらくして、東方の博士たちがエルサレムに来て、ヘロデからベツレヘムと告げられ、遂に幼子を礼拝することができた。神の御子が人となって生まれ、人間の子どもが育つのと全く同じように、マリヤとヨセフに見守られて日々成長していた。
1、ところが、東方の博士たちの来訪は、思わぬ事態を招くことになっていた。「ユダヤ人の王」の誕生は、残忍なヘロデの心に、激しい怒りの炎を燃やさせていた。他方、全てのことを御手に治めておられる神は、とんでもない事態になる前に、夢でヨセフに御使いを遣わして命じられた。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。」ヨセフは、迷うことなく「夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」(13〜15節)人々が恐れたヘロデの残忍さは、自分の政敵は身内でも(妻や子どもたちでも)容赦しないことにあり、かつて王になった時、最高議会の議員たちを殺しただけでなく、議会関係者を三百人も殺したことでも知られていた。ヘロデは、博士たちが戻ってこないことに怒り、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子を亡き者にしようとした。該当するのは約二十人位、ヘロデには容易いこと、何ら心の痛むことではなかった。けれども、神の確かな導きと守りは、間違いなく幼子の上に届いていた。(16〜17節)
2、こうしてエジプトに逃れている幼子イエスと母マリヤが、神に守られ、またヨセフに守られて過ごしていた時、紀元4年にヘロデが死んで、御使いがヨセフに遣わされた。「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」(19〜20節)彼が治めた王国は三人の息子たちに割譲され、ユダヤはアケラオが、ガリラヤはヘロデ・アンティパスが、ヨルダン川の東側と北東地方はピリポが治めることになった。ヨセフは神の導きに従ってイスラエルに戻ったものの、ユダヤを治めるアケラオが、父ヘロデに劣らず残忍であると知り、そこに留まるのを恐れた。ヨセフの恐れを知る神は、またも夢で戒めを与えておられる。ヨセフは、その導きを確かに聞き分け、ガリラヤに退き、ナザレに住んだ。そこはマリヤとヨセフが住んでいた町、ベツレヘムがユダヤのはずれであった以上に、さびれた田舎町であった。(21〜23節)神の御子は、ますます人里離れた所で、時が来るまでひっそりと過ごすことになる。神の不思議な導きの中で、幼子のイエスは、時が来るまで、しっかり守られて過ごすのである。人がどんなに暴虐な力をふるい、幼子イエスを殺そうとしても、神の守りはいつも絶大で万全であった。
3、幼子とその母マリヤ、そしてヨセフは、この世の権力者によって危険にさらされ、南に北にと逃避行を続けなければならなかった。逃げなさい・・・と命じられ、「夜のうちに幼子とその母を連れて」逃げるのは、そんなに易しいことではない。ヨセフには、いつ、どんな時にも、神に従う目覚めた信仰があったものと、感心するばかりである。と同時に、全てのことの背後で、神の御手が働いていること、しかも、神のご計画の通りに全てのことが起こり、それらは寸分の狂いもないことが告げられている。全てみことばが告げることが、その時々に成就している。エジプトはかつてイスラエルの民が、そこで偉大になり、またそこで苦難を味わい、モーセによってそこから救い出された地である。「『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した』と言われた事が成就するためであった」とは、そのような救いをもたらす方としてイエスが歩まれることを指すものと思われる。(ホセア11:1)ベツレヘムの男の子の殺戮も預言の成就とされるのは、痛ましい出来事の背後にあって、真の慰めはどこから来るのか、人々が真剣に考えるようにとのことである。(エレミヤ31:15)「この方はナザレ人と呼ばれる」については、後々、イエスが「ナザレ人」と侮られるようになることを指している。キリストが「ナザレ人」と蔑まれることになることも、神ご自身のご計画では、織り込み済みであるというのである。
<結び> 新しい年の最初の主の日、この聖書から教えれることは、生ける真の神は、起こり来る一切の事柄を支配ておられ、神の確かな導きと守りは、いかなる時にも絶大であるという事実である。神の許しなしに事は起こらない。全ての人は、神に生かされ、神のご計画の下で、それぞれ務めを与えられ、その務めを忠実に果たすことが求められている。幼子イエスをこの世に送り出された神は、幼子のいのちを守るために、確かな導きを与え、確かに守られた。その過程で、理不尽にもいのちを奪われる人がいて、悲しみに包まれる人がいた。その人々はどうなのか・・・と言われると、私たちは答えに窮する。それでも、全てが神のご計画の中にあることは、疑いの余地がない。神と共に歩み、真の神の前に真実に生きるためには、私たち人間の罪が取り除かれねばならなず、私たちの人生に降りかかる、ありとあらゆる悲惨や不幸は、突き詰めると、やはり、神への不従順、神に背いた罪ゆえと認めなければならないからである。
だからこそ、神の御手の中にあって、確かに導かれ、また守られていることの幸いは測り知れない。私たちは、最初のクリスマスの出来事の一コマ一コマに込められた、神の確かな導きと守りが、私たちの日々の生活においても、実際に備えれていることを信じて、この一年を歩み始めたいと思う。過ぎ去った日々を思い返す時、「その通りであった」と言えることがいくつもある。もちろん、私たちには隠されたこと、よく分らないことが多くある。それでも、生ける真の神の恵みと守りを感謝して、今日からの日々を、しっかりと歩ませていただきたい。(詩篇121:1-4)
|
|