礼拝説教要旨(2016.12.25)
飼葉おけのみどりご
(ルカ 2:1〜21)

 「イエス・キリストの誕生は次のようであった」と記すマタイの福音書は、マリヤから生まれる男の子は「聖霊によるのです」と、イエスは処女マリヤから生まれたと告げていた。ヨセフは、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と、はっきり知らされたのであった。そして、しばらくして東方の博士たちがやって来て、幼子のイエスを見て、「ひれ伏して拝んだ。」彼らは王なるイエスを、心から敬い、この王にお仕えしたいと、贈り物をささげ、心を満たされて帰って行った。(※マタイ1:20-21、2:11-12)今朝はクリスマス礼拝にあたり、ルカの福音書に目を留め、救い主がお生まれになった、その夜の光景を心に刻みたい。

1、ルカの福音書も、イエスの誕生については、「処女降誕」の事実をかなり丁寧に記している。ガリラヤのナザレに住む処女マリヤのもとに御使いが遣わされ、「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」と告げたのであった。戸惑うマリヤに御使いは、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。・・・神にとって不可能なことは一つもありません」と告げた。神を信じるマリヤは、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と、神のなさることに身を委ねたのであった。(1:26-38)やがてヨセフも「聖霊による」ことを理解し、幼子の誕生の日を待つことになったが、彼らの思いや力では、どうにもならない事態が、二人に圧し掛かかていた。時のローマ皇帝、アウグストによる住民登録の勅令が出されていたからである。ローマ帝国の支配が広大に及び、命令が実行されるには数年を要する大仕事であった。とうとうユダヤの各地で実際に登録がなされるのと、マリヤの臨月が重なる中で、二人は、ナザレからベツレヘムへと移動することになってしまった。(1〜5節)

2、「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(6〜7節)「ところが」には、不本意にもそうなった・・・という響きがある。登録を済ませて帰路に着くつもりだったかも知れず、予定通りには行かず、宿の確保もままならず、とうとう月が満ちて、出産を迎えたのである。生まれた幼子を、布にくるんで、ようやく飼葉おけに寝かせつけ、二人がホッとしている様子が目に浮かぶ。御使いを通して、特別な男の子であること、「すぐれた者」、「いと高き方の子」と呼ばれるとしても、目の前の現実には、何一つ特別なことがあるわけではなかった。二人は、神を信じ、神に任せて歩んでいた。幼子を見守りながら、神の約束を思い巡らしているマリヤとヨセフの姿に、私たちの心を向けたいと思う。神は、この幼子の誕生を、野宿で夜番をしていた羊飼いたちに知らされた。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」この御使いの知らせに続いて、天の軍勢が現れて、神を賛美した。それは賛美の大合唱のようであったに違いない。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(8〜14節)

3、神は、「飼葉おけ」に寝かされた幼子を、羊飼いたちに引き合せようとされた。それで「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます」と、はっきり告げておられる。彼らは「主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」と、すぐさまベツレヘムに向かった。そして、「マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。」彼らは、救い主のお生まれを知らされ、「この方こそ主キリスト」と知らされた時、神からの知らせを、しっかりと受け止めた。自分たちのために救い主がお生まれになったと大喜びした。マリヤとヨセフに、御使いの知らせのこと、その時の驚きや戸惑い、今、幼子にあって大喜びしていることを話して聞かせた。出会った全ての人に話さずにはいられない位に、嬉々としていたことであろう。マリヤはそれら全てを、心に納め、思いを巡らしていた。羊飼いたちの帰路は、証しと賛美に溢れていた。飼葉おけのみどりごのお姿は、優しさと慰めに満ちたもので、その方にまみえた喜びは、何ものにも代えがたいものであった。(15〜20節)

<結び> 八日が満ちて幼子は割礼を施され、「イエス」と名づけられた。マリヤもヨセフも、御使いに命じられた通りに従っている。確かに救い主であることを、心に留めることとなる名であった。羊飼いたちが幼子に会うことができたのは、幼子が「飼葉おけ」に寝かされていたからと思われる。特に、羊飼いたちのように、この世で社会的に疎外され、取り残された状況に置かれていた場合、小奇麗な場所に進み出るのは、躊躇うばかりに違いなかった。「飼葉おけに寝ておられるみどりご」と聞いた時、そこなら行ける・・・と直感したものと思われる。彼らは迷わずに出かけて行った。そして、あきらめずに捜し当てた。

 「飼葉おけのみどりご」は、私たちをも招いてくれている。来る者を決して拒まず、誰もが近づくのを待っておられるのが、「飼葉おけのみどりご」である。飼葉おけに寝ておられた幼子は、年およそ三十歳になって、公の伝道の生涯を歩まれた。およそ三年半の後、罪はないにも拘らず、十字架で死なれた。主イエスを救い主と信じる人々のため、罪の身代わりとなって死なれたのである。いと高き神が、いと低くなって人間となられ、いと近くなられたお姿の一つが、この「飼葉おけのみどりご」であった。マリヤとヨセフが、この幼子を見守っていた時、突如として羊飼いたちが現れたのに違いない。彼らは、この幼子こそ「救い主」「主キリスト」と信じて喜んだ。今朝、私たちも「飼葉おけのみどりご」こそ、私の「救い主」「主キリスト」と、心からの信仰を言い表わしたい。私たちの神は、私たちから遠く離れたところにおられる方ではなく、幼子となって、私たちを招いて下さっていることを心から感謝して!