礼拝説教要旨(2016.12.18)
王を拝した博士たち
(マタイ 2:1〜12)

 「ダビデの子ヨセフ、恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(1:20〜21節)夢に現れた主の使いが告げた言葉を、ヨセフはしっかり受け止めることができた。やがてマリヤから生まれた男の子に、ヨセフは「イエス」と名づけた。罪からの救い主の誕生を、ヨセフ自身も感謝をもって見守るのであった。(1:24〜25節)

1、このように「イエス・キリストの誕生」において、処女マリヤからの誕生を明言するマタイの福音書は、誕生の日の詳細を、それ以上記すことはなく、それからしばらくしての、一つの出来事を記している。「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」(1〜2節)「処女降誕」の事実を記したこの福音書は、次に、「イエス・キリストの誕生」を、単なるお話、または物語としてではなく、歴史上の確かな出来事であると告げている。「ヘロデ王の時代」に、「ユダヤのベツレヘム」で、イエスはお生まれになった。その時、こんなこともあったと、東方の博士たちの来訪を記すのである。ヘロデがユダヤの王であったのは、紀元前40年から4年の間で、この王の死の年がはっきりしているので、イエスの誕生は、紀元前6〜4年の頃とされるのである。

2、東方の博士たちは、バビロンやペルシャ地方の占星学者、または天文学者で、古くから旧約聖書の預言に触れる立場にあったと考えられている。日頃の研究の成果なのか、ある日、ユダヤを治める新しい王の到来を告げる星を見つけ、その王を何としても礼拝したい・・・と旅をしたのである。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」は、万人に関わりのある「王」であり、また自分にとっての「王」と、彼らは確信したからである。彼らは、ユダヤ人の王なら、きっとエルサレムにいる筈と、時の王ヘロデのところにやって来た。驚き、恐れ惑ったのはヘロデの方であった。彼は稀に見る残忍な王であり、自分を脅かす者は、身内さえ容赦せずに命を奪った人物である。その自分が知らないところで王が生まれているとは、とても赦せないことであった。王の人となりを知る町の住民も、これは大変なことが起こる・・・と、怯えることになった。但し、王は自分の狼狽えは見せないようにして、民の指導者たちを集め、ユダヤ人の王、すなわちキリストはどこに生まれるのかを問いただした。そして、キリスト(メシヤ)は「ユダヤのベツレヘム」から出ると知らされた。ヘロデ王は、一安心したかのように、ひそかに博士たちからいろいろと聞き出してから、彼らをベツレヘムへと送った。自分を脅かす者を退ける算段を、いろいろと練りつつであった。(3〜8節)

3、博士たちがベツレヘムへと向かった時、「見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。」東方で見た星が、天できらめくように博士たちを導き、幼子のいる所に辿り着けたのである。「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」(9〜10節)彼らは、不思議な導きを感じつつ、確かな導きを喜んだ。聖書が告げることの確かさを思い、そして、ユダヤ人の王として生まれた方を、自分たちも一緒に祝える幸いを感謝し、目の前にいる幼子こそ、尊い王であるとの確信が、彼らの心を満たした。彼らは幼子イエスを王として拝し、その服従の心を、宝物をささげることによって表わした。「・・・黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」(11節)いずれの贈り物も、最高のもの、また最善のものである。すなわち、自分のために何がしかを残しておくような仕方ではなく、ささげ尽くす心が表れたもの、王への服従こそが込められたものであった。彼らが、幼子イエスを王と拝したその時から、自分たちが従うのはイエスご自身のみで、地上の王ヘロデは、もはや恐れることも、この王に仕えることもしない・・・と、彼らの心は決まった。「それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」(12節)不思議な導きに従いつつ、彼ら自身の決意が込められた帰路である。

<結び> 実のところ、博士たちは初めから、余りヘロデ王を恐れてはいなかったようである。ヘロデ王に直接面会したかは不明であるが、ヘロデがユダヤの王であった時に、エルサレムに来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」と尋ねている。真の王にこそお目にかかりたい、聖書に約束された王なる方、キリストにこそお会いしたい・・・と願ったのである。そして「幼子を見、ひれ伏して拝んだ。」彼らは、まだ幼子であったが、イエスを王として拝したのである。

 「王を拝する」行為は、真心からの服従や、その方への全き忠誠心なしにできることではない。私たち人間は、何と口先だけのことや、表面上だけのことを、形だけや儀礼的に行って、それで平然としていられることかと、時に驚いてしまう。これは私たちのイエス・キリストを信じる信仰においても、とても重大なことである。主イエスを信じますと言いながら、自分に良くして下さる限りの主イエスに感謝しているということはないだろうか。私たちが主イエスに仕えるのでなく、私たちに仕えてくれるよう主の名を、都合よく呼んでいたりする。(※ほとんどの宗教が、実は、自分に良くしてくれる神々を、人々に提供しているだけである。)私たちは、王なるイエスに、心から従う者、心から仕える者となるように祈りたい。聖霊によって、私たちが内側から造り変えられることを、もっと求めようではないか。私たちの言葉も、行いも、もっともっと王に従うものとなって、整えられることを。