「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」との書き出しで始まったマタイの福音書は、ナザレ人イエスこそ、神が約束された救い主キリストであることを読者が悟るよう、系図を記し、あなたがたが待ち望んでいたのはこの方である、この方のところに来なさいと読者を招いている。系図に続くのは、「イエス・キリストの誕生は次のようであった」と記される、母マリヤからの誕生の次第、一点の曇りもない「処女降誕」の事実である。
1、処女マリヤからイエスが生まれたことについての疑義は、何も現代人だから言えることなのではない。紀元一世紀においても、「処女降誕」には異論があり、イエスをマリヤの不貞の子とする、ユダヤ人たちからのそしりがあったと言われる。そうしたそしりに対して、この福音書は、イエスはダビデの子孫であり、それも神の超自然的な介入により、処女マリヤより生まれたことを明らかにする。超自然的であり、同時に、当事者たちの真実な生き方のもとで事は起こっていた・・・と。「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」(18節)当時のユダヤ人たちの婚約は、事実上の結婚であり、約一年の婚約期間の間も、事実上は夫婦であった。従ってその間に、夫ヨセフの知らないところでマリヤが身重になるのは、とんでもない事態の発生である。マリヤ自身は「聖霊によって身重になったことがわかった」としても、ヨセフは、彼女と同じように理解するのは不可能であった。
2、けれども「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」(19節)ヨセフは、神の前に正しく歩もうとする人で、戒めを守り、心穏やかに生きることを心掛けていた。もし彼がマリヤに怒りをもって接するなら、たちまち彼女を石打ちの刑にさらすことになる。彼はそれを望まず、彼女を穏便に去らせようと決めたのである。彼は、マリヤへの誠意を込めた決意をいつ実行に移すのか、なお思い巡らしていたのであろう。その時「主の使いが夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』」(19〜20節)神は、ヨセフの心の動きを知っておられた。そして、神が良しとされる時に、直接介入されたのである。彼は、御使いの知らせを心から受け止めることができた。彼はマリヤを信じてもいたのに違いない。彼女の身の上にそんなことが起こっていたと、気づかないでいた自分を責めもしたかもしれない。神を信じるヨセフは、眠りから覚めると、迷うことなく、「主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」(24〜25節)
3、神を信じ、神を敬い、自らも正しく生きようとしていたヨセフは、ダビデの子として世に来られる救い主、キリストを待ち望む信仰に生きていた一人である。マリヤの胎に宿るいのちは聖霊によるものであり、生まれるのは男の子、その名をイエスとつけるよう命じられ、しかも、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と告げられて、それまでの恐れや不安は全く消え去った。聖霊によって生まれる男の子に、その名を「イエス」とつけなさいと命じられた時、その理由も告げられていた。「主は救いたもう」という意味の「イエス」という名は、人々が好む名前であったが、その名が意味するのはもっと大事なこと、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と、人を苦しめ悩ます罪、神から離れ、人を悪から悪へと誘うあらゆる罪から救うのはこの方と、ヨセフは告げられた。彼は、自分がそのような大事な出来事の中にいることを感謝したことであろう。だからこそ、夢から覚めて、迷わず妻マリヤを迎えている。以後、男の子の誕生まで、マリヤと胎のいのちを守るための大事な役割を担った。このようにして、イエスは処女マリヤからお生まれになったのである。
<結び> 「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」(22〜23節)多くの人々が、絶対に有り得ないこととして退けたい「処女降誕」かもしれない。しかし、それは事実として起こっていた。神ご自身が直接マリヤに介入しておられ、聖霊によってマリヤは身重になったのである。その事実を受け止め切れずにいたヨセフにも、神は直接介入なさり、彼を信じる者として立たせておられる。この超自然の不思議は、旧約聖書に預言されていたことが、約束の通りに成就していた。(イザヤ7:14)「イエス」と名づけられる救い主は、「インマヌエル」と呼ばれる方でもあった。神は私たち人間から遠く離れたところにおられるのではなく、人間となってお生まれになり、私たちに近づき、私たちとともに歩まれるお方、私たちとともにおられる方である。私たち人間を罪から救う方が、罪のないお方として、処女マリヤからお生まれになった事実は、救い主の誕生において、欠くことのできない大事な一面である。このことは紀元一世紀の人々にとっても、とても大きな事柄だったことを、私たちも心に刻みたい。
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