礼拝説教要旨(2016.12.04)
イエス・キリストの系図
(マタイ 1:1〜17)

 主の2016年も最後の月、12月を迎えた。救い主のお生まれを大喜びする季節、心からの感謝をもって過ごしたい。今朝は、マタイの福音書に目を留めることとする。マタイの福音書を読み始めると、ほとんどの人が最初の記述に戸惑い、カタカナの人名に根を上げる。私もその一人で、クリスマスの時に1章18節から読み始めることが多い。けれども今年は、1章1節からしっかり目を留め、主からの教えに、心の耳を傾けてみたい。その書き出しは、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」である。(1節)

1、この書き出しは、マタイの福音者の読者の多くがユダヤ人であり、その読者たちのために、「系図」から書き始めたと考えられている。彼らが伝記を書く時、系図から始めるのは自然であり、また大事なことであった。それだけ血筋を重んじる人々だからである。けれども、イエス・キリストに関しては、「アブラハムの子孫であり、ダビデの子孫である、イエス・キリストの系図」と宣言した上で、以下の系図を記したものと思われる。ナザレ人イエス、十字架で死なれたイエス、そして死からよみがえったイエスは、アブラハムの子孫として約束されていた方、またダビデの子孫として世に来られたメシヤ、キリストであると、高らかな宣言を込めた書き出しとなっている。人々は、神の民への神からの救いと祝福はアブラハムから始まり、またダビデの子として世に来られる方によって、ダビデの王座が固くされると、信じて待ち望んでいたからである。そのように信じて待ち望んでいる人々に向って、イエスはキリストです、イエスこそキリストです、この方のところに来なさいと、「イエス・キリストの系図」を掲げるのである。

2、2節以下、アブラハムからダビデまでの十四代と、ダビデからバビロン移住までの十四代、そして、バビロン移住からキリストまでの十四代と、系図は意図的に整理されて記されている。イエスがダビデの子であり、王として生まれた方という意味を込め、十四代ずつのくくり方をしている。けれども、それよりは、イエス・キリストの誕生は、神の永遠のご計画の下に、長い年月を経て、確かにこの世に実現したことであり、その事実は、この世で人々がどんなに待ち望んでいたことなのか、その喜びの測り知れなさを表わしいる。アブラハムは紀元前二千年頃、ダビデは千年頃、バビロン移住は六百年頃から数回に及び、その後、バビロンから帰還した民の歴史は、実に波乱万丈であった。系図を一人一人たどる時、読者は、神の民が歩んだ歴史の一コマ一コマを思い出しながら、「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった」に行き着くのである。この福音書が記された当時も、処女マリヤから生まれたイエスについては異論があった。そこで、18節以下の「イエス・キリストの誕生は次のようであった」に続くことになる。イエスの誕生は、神の直接の介入によることで、神が成さる不思議そのものであると、この福音者は冒頭から明らかにするのである。

3、系図に記された一人一人は、みな例外なく神によって生かされ、神の前に生きた人々である。神を信じ、神を敬い、神に従った人が大半であるものの、その生き方には大きな違いがあり、神に背き、神を悲しませ、自分を誇る者たちもいた。読者は、自分は神の前にどのように生きるのか、人生のいろいろな場面で、どのような決断をし、どのような道を選び取るのか、自分のことが問われることになる。この系図の中に、マリヤ以外に四人の女性が登場するが、わざわざ名を記されるのはなぜなのか戸惑いがある。「ユダにタマルによってパレスとザラが生まれ」(3節)、「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ」(5節)、「ボアズに、ルツによってオベデが生まれ」(5節)、「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」(6節)と記される。タマルはユダの息子エルの妻であったが、夫とは死別していた。ラハブはエリコの町の遊女、ルツはモアブ人、ウリヤの妻バテシェバは、ダビデがその権力によって強奪した女である。いずれの当事者も、自分の聖さや正しさ、また血筋などを決して誇れない事情の中を生きた人々である。神の前に、人は罪ある存在であって、神の赦しなしには決して生きられないことを思い知るようにと、この系図は読者に迫っている。全ての人が、神の赦しとあわれみの中で生かされていることを知り、罪の赦しをもたらすためにお生まれになったイエス・キリストを信じるように、と聖書は説くのである。(※ユダとタマル:創世記38:1-30、サルモンとラハブ:ヨシュア記2:1、ボアズとルツ:ルツ記1:1-5、4:13-22、ダビデとバテシェバ:サムエル記第二11:1-12:25)

<結び> この日本の社会にも、血筋や家柄を誇る考え方がある。生まれや血筋を誇りたい人は、いつの時代も、どこの国にもいる。イエス・キリストの系図は、そんな人間的な誇りは、全く意味をなさないもの、そんな誇りから自由になるようにと、私たちに教えている。人間を罪や過ちから、根源的に救ってくれるのは、ただイエス・キリストだけである。主イエスが十字架で死なれたのは、私たちを罪から解き放ち、全く聖くし、全く自由にするためであること、そのための先ず第一歩、罪のない方として生まれたのが、母マリヤからの誕生だったのである。主イエスを救い主キリストと信じる信仰を、このクリスマスの季節に思い新たにし、一層豊かにさせていただきたい。イエス・キリストは私の救い主です! 私はこの方に従います!! と。