礼拝説教要旨(2016.11.27)
救い主キリストが世に来られた
(テモテ第一 1:12~17)

 主の2016年も残すところ一か月余りとなり、救い主のお生まれを待ち望む季節を迎えた。今年の教会の暦は、今日から「待降節=アドベント」の季節を過ごし、12月25日が「降誕節=クリスマス」となる。暦に縛られるのは本筋ではないが、救い主の到来、また誕生は、私たちにとって大きな喜びである。この季節を喜びと感謝をもって過ごすのは、とても大事なこと、殊のほか幸いなことである。クリスマス礼拝の日までの約一か月、私たちにとって、救い主が世に来られた喜びがどれ程のことか、心の耳を澄まして、みことばに耳を傾けてみたい。今朝は、使徒の働きの中で、主イエスのためには、「死ぬことさえ覚悟しています」と言い切ったパウロの言葉、若き伝道者テモテに宛てた手紙の中の言葉に、先ず目を留めてみたい。

1、パウロという人物は、ユダヤ人として旧約聖書の教えに従い、真の神を信じて、この神に自分をささげ尽くす思いで、誰よりも信心深く歩もうとしていた。恐らく、青年期よりエルサレムで、やがてユダヤ人の指導者になるための訓練を受けていたと思われる。彼の神に対する熱心は、イエスをキリストと信じる人々を迫害することに表れ、その激しさは、男も女も容赦はせず、死にまでも至らせていたと言う。エルサレムで学びながら、ナザレ人イエスのことを耳にすることがあり、イエスに従う弟子たちが増えていることに、しばしばイラついていたのであろう。イライラが頂点に達したは、十字架で死んだはずのイエスが、死からよみがえったと弟子たちが宣べ伝え始めた頃であろう。ペンテコステの日を境にして、爆発的にイエスを信じる人々が増え、もう黙ってはいられないと迫害の炎を燃やしたのである。ステパノを石打にすることはもちろん、他にも弟子たちを捕え、死に至らせようとダマスコの町に向かった。十字架だ死んだイエスがよみがえったなど、そんな教えを広めてはならないと、真剣そのものであった。多分、イエスと同世代であり、対抗心のようなものもあったと思われる。

2、ところが、そのダマスコ途上の時、よみがえって生きておられる主イエスがパウロに現れ、彼を異邦人に福音を伝える器とされたのであった。ナザレ人イエスが生きておられると、まざまざと知ることになった。そればかりか、主は、それまで間違ってしていたことを全部ご存知の上で、私に務めを託して下さり、しかも「私を忠実な者と認めてくださった」という事実、このことの故に、パウロはただ感謝をささげる他なかった。これは主イエス・キリストのあわれみによる以外にないと、パウロの生涯は、180度、大転換することになった。(12~13節)過去のことを咎められ、責任を問われたなら、果たしてどのようになっていただろうか。神を信じ、神に忠実であり、熱心であったが、それは的外れであった。神のためと熱心であったが、それらはただ自分を満足させるだけであった。「神をけがす者」だったのである。その的外れは、「迫害する者」「暴力をふるう者」となって表れ、神のあわれみなしには、赦されないことばかりであった。人生の大きな方向転換した後は、主イエスを信じ、主イエスを愛して歩めば歩む程、神の恵みとあわれみに包まれている幸いを思うのである。この幸いを一人でも多くの人に伝えたい・・・と。(14節)

3、過去の罪や失敗、また過ちをなかったことにする・・・というのではない。また、過去は問わない・・・というのでもない。自分の罪や過ちを認めて、イエスをキリストと信じること、「イエス・キリストは、神の前に罪ある私を救うためにこの世に来られた・・・」と信じることが、何よりも大事なことである。パウロが人々に福音を語り、また他の弟子たちも福音を語り続けた時、その教えの中心にある要点が、やがて決まり文句となって広まって行った。その一つが「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」という言葉である。パウロは、この言葉は「まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」と言い切った。自分こそ、主イエスが十字架で死んで下さったことによって、自分ではどうにも解決できない罪を赦していただいた者、赦されなければ、とても生きて行けない罪人そのものと告白したのである。イエス・キリストは、ある日突然、この世に現れたのではなかった。神の永遠の救いのご計画の下に、長い年月を経て、そのご計画は実現した。旧約聖書で預言され、時が満ち、マリヤより生まれた。そして罪のない生涯を歩まれ、十字架で身代わりの死をとげられた。三日目に死からよみがえり、この方こそ信ずべき方であると、イエスの十字架と復活のことが、全世界へと宣べ伝えられるようになった。パウロは、自分のようなものがあわれみを受けたのは、今後、どんな人でもあわれみを受け、永遠のいのちを得られるためと言う。神の救いの恵みは測り知れず、神の寛容はこの上もないものだからである。(15~17節)

<結び> イエス・キリストは、私たち罪人を救うため、この世に来られた方である。イエスをキリストと信じるとは、「主イエスこそ、私の救い主キリストです」と信じることである。その具体的な内容は、「主イエスは、私の罪を赦すために、十字架でご自分のいのちを捨てて下さいました。私はそのイエスを、私の救い主キリストと心から信じて、キリストに従います」と告白することである。「救い主キリストが世に来られた」と言う時、十字架と復活の事実の尊さと共に、長い年月を経て、預言が成就し、確かにお生まれになったことも、はっきりと覚えたい。罪のない方として生まれることがなければ、私たちのたましいの救いは、決して保証されないからである。尊い神の御業として救い主の誕生があり、罪のない方として生涯を歩まれ、罪なくして十字架で死なれたのが、私たちの救い主、イエス・キリストである。

 そして今朝、一人の兄弟の洗礼式が備えられていることを感謝したい。主イエス・キリストは、一人また一人と、罪人を救うためにこの世に来られたのである。私たちはみな、キリストの十字架の死によって、罪を赦された罪人である。神の底なしのあわれみだけが、私たちの拠って立つところ、存在の原点であることを忘れないように! そして、私にこの上ない寛容を示して下さったことを忘れずに生きることを心掛けたい。罪の赦しを与えられた者の証しこそが、他の人への確かな証しとなることを忘れないように。こんな私が、神の恵みとあわれみに支えられ、今、感謝の日々を歩ませていただいています、と心から言えるように。