礼拝説教要旨(2016.11.20)
死を覚悟しての旅
(使徒の働き21:1〜16)

 エペソの長老たちとミレトで別れ、パウロの一行はエーゲ海の東岸を南下してコス島に着き、ロドス島、そしてパタラの町と地中海の北岸を辿って、いよいよフェニキヤ行の船に乗って出帆した。そこからは地中海を南東方向に横切る航路を進み、途中、キプロス島を左に見ながら、船はシリヤに向かった。そしてツロに上陸し、そこに七日間滞在することになった。目指すエルサレムはもうすぐのところまで近づいていたので、一行と交わりを共にした弟子たちの心は、不安に包まれていた。「彼らは、御霊に示されて、エルサレムに上らぬようにと、しきりにパウロに忠告した。」(1〜4節)エルサレムへ向かう旅は、いよいよ緊迫感を増していた。

1、パウロの伝道、特に異邦人への福音宣教の拡がりは、ユダヤ人たちの間に激しい反感や妬みを引き起こしていた。その反感や妬みが、エルサレムで一気に爆発するのを弟子たちは恐れたのである。けれども、パウロの心は、決して迷うことはなかった。「しかし、滞在の日数が尽きると、私たちはそこを出て、旅を続けることにした。・・・」主にある者たちの交わりは、恐れや不安のある時こそ、共に祈ることを通して、共に主を見上げることへと導くものである。パウロたちを見送るため、家族を伴って、町はずれまで来た弟子たちは、「ともに海岸にひざまずいて祈ってから」、一行に別れを告げた。祈りを通しての励まし、また力づけは、人の思いを超えている。(5〜6節)パウロたちは、神ご自身に支えられ、ツロからトレマイへと船で南下した。そこでも一日滞在して、主にある兄弟たちと交わり、翌日、カイザリヤに到着した。そこでは、伝道者ピリポの家に滞在し、ここでも主にある交わりを喜び、感謝の時を過ごすことができた。(7〜9節)パウロたちには、どこに行っても、主にあって彼を歓迎する人々がいた。その人々と親しく語り合い、祈り合う交わりが備えられていた。主にある交わりの確かさ、また素晴らしさである。

2、ところが、ここでまた、喜びや幸いを脇へ追いやることが起こった。アガボという預言者がやって来て、エルサレムでパウロに何が起こるのか、不安をあおることを語ったからである。「パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される』と聖霊がお告げになっています」と言った。」パウロが捕えられることを、実演して見せたのである。アガボの預言は、十分に信頼できるもので、自分勝手に、「聖霊が・・・」と言っているわけではなかった。そのため、パウロと共にエルサレムに向かっていた人々も、みんな一緒になって、「パウロに、エルサレムには上らないように頼んだ。」(10〜12節)実演入りのアガボの預言を、誰も無視することはできなかった。パウロのいのちの危険を察知した。パウロ自身の気持ちを、みなが理解していたとしても、それでも、パウロが捕えられるのを見過ごせないと思ったのである。(※私たちがその一行の一人だとしたら、どのように考えるだろうか。)

3、エルサレムへ行こうとするパウロの心は、それでも揺るがなかった。「するとパウロは、『あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています』と答えた。」彼の決意は固く、「縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟・・・」と明快である。人々の説得は通用せず、みんなは「『主のみこころのままに』」と黙るしかなかった。(13〜14節)パウロは、エルサレムでばかりか、どこででも苦難のあることを聖霊によって知らされていたので、殊更の驚きはなかった筈である。いつも死を覚悟して主に仕えているので、何ら動じなかった。こうして数日後には、エルサレムへと出発した。カイザリヤからの同行者もいて、途中、キプロス人ナアソンの家に泊まることになっていた。緊迫した旅の中でも、行く先々で主にある交わりが備えられ、共に喜び、共に祈ることができる旅を、パウロたちは続けていた。この地上の日々を過ごす時、私たちも、そのような交わりが、どこに行っても備えられこと、また導かれることを祈り求めたい。

<結び> パウロのエルサレム行きは、「死ぬことさえも覚悟しています」との言葉通り、まさしく「死を覚悟しての旅」であった。けれども、パウロの生き方は、この時に限らず、いつでも、どこででも、死を覚悟したもの、真剣なものであったと思われる。私たちが学ぶべきことは、そのことであって、「主イエスの御名のためなら、・・・死ぬことさえも覚悟しています」と、私たちも言い切る生き方を、日々しているかどうか、そのことが問われる思いがする。実際に、軽々しく「死」を口にすることはできない。けれども、私たち人間は、生まれた時から、「死」に向かっている。ある時まで、「死」と無関係でいて、ある時を境にして、「死」に向かうわけではない。その意味では、人生そのものが「死に向かう旅」と言っても、言い過ぎではないであろう。それゆえに、神を信じて、神が遣わして下さった救い主、イエス・キリストを信じて生きることの尊さは、どれほど言葉を尽くしたとしても、言い表し切れないものである。神の前に、罪の赦しをいただき、神と共に歩み、神にあって自分の人生を生き抜くならば、それは、神にあって死ぬことさえ覚悟した人生となる。そのような人生は、この世の様々な波風にのまれることがあっても、決して打ち負かされることのない、確かな人生なのである。

 エルサレムに向かうパウロは、もはや、何も恐れず前を向いている。それは晩年のパウロだからなのだろうか。その迷いのない状態に到達するのに、私たちには、なお訓練が必要なのだろうか。今すぐ到達できるかできないかは別にして、やはり、パウロの覚悟を学び取りたい。「・・・どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。・・・」(ピリピ1:20-21)神にあって「死」を覚悟するならば、「死」は全く恐れるものではなくなるのである。私たちも、パウロの姿を通して、そのことを知ることができる。