礼拝説教要旨(2016.11.13)
神と神の恵みのみことばとに
(使徒の働き20:25〜38)

 エペソの長老たちをミレトに呼び寄せ、そこでパウロが語った大事なことは、確かに遺言となるような「惜別の辞」であった。これから後は、どこへ行っても、待ち受けているのは「なわめと苦しみ」であると言い切った。そして「私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」と語ったのである。(22〜24節)驚いて、互いに顔を見合わせていたに違いない長老たちに向かって、パウロはなおも語り続けた。「皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。・・・」(25〜27節)自らの死を覚悟したパウロの思いは、一層明確であった。もう一度会うことはない、語るべきことは全て語り、大事なことは「余すところなく」知らせたと言って、その上でなお、心に留めて欲しいこと、忘れないでいてもらいたいことを、溢れる思いを込めて語ろうとした。

1、「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」(28節)パウロは、エペソの教会に立てられた長老たちにこそ、十字架の主イエスを信じる信仰に堅く立つことを求めたのである。「自分自身と群れの全体に気を配りなさい」と。パウロが語ることを、先ず聞くべきは長老たちであった。「教会」は、神ご自身が御子イエスの血をもって買い取られたものである。そして、聖霊なる神が、長老たちを「群れの監督」に立てられたのである。長老の立場で聞くべきことと、信徒の立場で聞くべきことは、少し違っている。誰もが心に留めるべきことは、私たちの教会も、「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」であって、長老たち、教会の役員たちは、「神の教会を牧させるために」、神によって立てられているという事実である。私たちの教会が、御子イエス・キリストの血潮によって買い取られた「神の教会」であることを、感謝をもって覚えることができるように、心から神をほめたたえることが導かれるように。長老たちは、その「神の教会」を牧する務めが与えられているのである。

2、パウロが長老たちの自覚を促し、群れに心を配ってほしいと願ったのは、これから後に迫る危機を実感していたからである。その危機とは、「狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ること」であった。それだけでなく、「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲ったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こる」ことにあった。外から間違った教えが入り込む危機と、内からも曲がった教えが広まる危機であり、どちらもやっかいである。巧みな惑わしによって、群れが右往左往させられる危機が迫っていた。(29〜30節)「ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。」(31節)目をさまして、涙とともに教えたことを、一つ一つしっかり思い出してほしい! 教会が、外からの攻撃と内からの惑わしにさらされるのは、教会が世にある限り避けるのは難しい。現代も、この日本でも、キリストの教会は、多くの攻撃と惑わしに直面させられていると実感する。この危機を乗り越えるために、「目をさましていなさい」と言われている。一人一人の自覚や、目覚めた信仰の大切さを知らされる。

3、けれども、一人一人の力は、実はとても脆いことをパウロは承知していた。「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」(32節)パウロがこのように言うのは、神ご自身が、「恵みのみことば」をもって、教会を養い育てて下さること、これが教会のいのちだからである。教会が、神以外のもの、また神の恵みのことば以外のものに依り頼むのは、全くの誤りである。けれども、この世には、多くの誘惑が満ちている。教会さえも、この世で祝福されること、この世で富み栄えることを教え、事実、神の祝福を取り違えることは、教会の歴史の中で繰り返されている。教会がこの世で富むことなど、パウロは、決して教えたりはしなかった・・・と言うのである。「私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。・・・・・このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は万事につけ、あなたがたに示してきたのです。」(33〜35節)彼が、皆に覚えてほしかった「みことば」は、主イエスの教えそのものである。「受けるよりも与えるほうが幸いである。」この「みことば」を決して忘れないこと、それが、教会が教会として生きるいのちであると、パウロは信じていたのである。

<結び> パウロは、長老たちとともに祈って、別れを惜しんだ。再び会うことはないと知って、一同、涙が溢れ、心は張り裂けるばかりに痛んだ。(36〜38節)どんなに別れを悲しみ、行く末を心配しても、教会が教会として生きる道は、ただ一つ、神とともに歩むことであり、神の恵みのみことばにのみ従うことである。中でもパウロが示した「みことば」は、「受けるよりも与えるほうが幸いである」であった。主イエスが語られた、「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」との教えに通じるものである。(マタイ7:12)すなわち、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という教えそのものである。そして、この教えを守るには、先ずは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」を守ることの大切さが含まれている。神を愛し、神に仕え、隣人を愛し、隣人に仕えること、これを真剣に追い求めるのが、教会のあるべき姿と教えられる。(マタイ22:36-40)

 私たちは、パウロの思いに触れ、神のみこころに触れることになる。私たちも「神と神の恵みみことばとに」ゆだねられて生きる時、歩む時、それによって育まれ、御国を受け継ぐ者と歩ませていただけるのである。どんな「みことば」によるのか。もし一つ、心にしっかり留めるとするならば、「受けるよりも与えるほうが幸いである」との主イエスのことば、これ!!とパウロは人々に語り続けたのである。私たちも、この「みことば」を心に刻むことができるなら、きっと確かな日々を歩ませていただけるに違いない。神の「みことば」こそが、私たちに力を与えものであり、確かな拠り所だからである。
(詩篇119:105)