礼拝説教要旨(2016.11.06)
謙遜の限りを尽くし
(使徒の働き20:17〜24)

 「パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げて、マケドニヤへ向かって出発した。そして、その地方を通り、多くの勧めをして兄弟たちを励ましてから、ギリシヤに来た。」(1〜2節)それは、コリントの教会の問題解決のためであったが、それ以外に、エルサレムの教会を助けるために献金や物資を集め、それを諸教会の代表者たちと共に届けようとしたことにあった。その旅の途中、トロアスで同行者たちと落ち合い、七日間の滞在中の最後、「週の初めの日」には、パンを裂くために集まり、皆で礼拝をささげた後、明け方まで話し合う交わりの時を過ごしたのであった。ユテコの転落死と死からの生還という出来事に接しながら、一行はエルサレムを目指した。陸路をとったパウロと、航路を進んだ者たちとはアソスで落ち合い、地中海沿岸をミレトまでやって来ていた。エペソに立ち寄りたい気持ちを抑えながら、旅路を急いでいたので、エペソの長老たちをミレトに呼び寄せ、そこでパウロは大事なことを告げようとした。遺言となるような「惜別の辞」である。

1、三年に渡ったエペソ伝道を振り返りながら、パウロは自分がどのような思いでいたかを語った。(17〜18節)エペソの長老たちがよく知っていることであっても、しっかり覚えていてほしいのは、このこと・・・と。「私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたに教え、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきり主張したのです。」(19〜21節)ユダヤ人たちからだけでない、人々の激しい反抗に遭いながら、涙をもって、主に仕えた時、「謙遜の限りを尽くし」た、と告白している。益になることは、ためらわずに語り、人々に、また家々で教えた・・・と。ユダヤ人とギリシヤ人の区別をせず、誰に対しても、神の前に、罪を悔い改めることを勧め、主イエスを信じる信仰の確かさを告げた。この信仰を大事にして、迷うことなく、惑わされることなく、主イエスを信じる信仰に生きてほしいと、心の底から願っていたのである。

2、そのように願う理由として、これからのエルサレム行きに、どれだけ危険や困難が待ち受けているのか不明でありつつも、いのちが脅かされる可能性のあることが、十分に予測できることを告げた。パウロは、そのことを聖霊によって知らされていたからである。たとえ、この地上の生涯を閉じることがあっても、何ら悔いることはなく、主イエスから託された務めを「果たし終えることができるなら」と、パウロは迷いなく語った。「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(22〜24節)これを聞いた人々の、驚く様子が目に浮かぶ。「一体何を言い出すのか。実際に、そんな危険な旅が待っているのか・・・」と、長老たちは顔を見合わせ、旅を思い止まらせねば・・・、そう思ったに違いない。けれども、パウロ自身には迷いはなかった。主イエスの十字架と復活を宣べ伝え、イエスを信じる信仰に生きる自分は、イエスにならって生きることが、一番の喜びであり、一番の幸いと確信して止まなかった。十字架の死を忍ばれた主イエスは、それこそ、「謙遜の限り」を生き抜かれた方だったからである。

3、パウロの思いは、いつも主イエスにならうことであった。「兄弟たち。私を見ならう者になってください」と言ったパウロは、その少し前で「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」と言っている。(ピリピ3:10-11)「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ2:6-8)パウロにとって、「謙遜の限りを尽くし」とは、主イエス・キリストが歩まれたように、自分も歩むことであり、「ご自分を無にして、仕える者の姿」をとられたように、自分も生きることにあった。彼は、エペソの町で、心を砕き、何とかしてキリストが歩まれたように歩もうとした。その一つ一つのことを覚えていてほしい、そして、あなたがたも同じように歩んでほしい、と願ったのである。

<結び> 今朝、私たちは、パウロの思いをしっかりと受け留めたい。私たちも主イエスを信じる信仰に導かれ、主イエスにならう者として歩ませていただいている。私たち一人一人が、どのように生きるのか、日々の生活において、どのように振る舞っているのか、どんな態度をとり、どんな言葉を発しているのか、立ち止まって、主ご自身に点検していただくこと、自ら自己吟味することの大切さを覚えたいのである。なぜそう思うのか。

 それは、私たち人間は皆、例外なく、神の前に罪がある事実のゆえに、生まれながらのままでは、絶対に「謙遜」にはなり得ないからである。私たちがもし、「謙遜」になれるとするなら、それは、全く神の恵みによることであり、主イエス・キリストが私たちを生まれ変わらせて下さり、キリストが私たちの内に住んで下さるからである。それ以外に、私たちが「謙遜」になって、「謙遜」の実を結ぶことは、決してできない。パウロが「謙遜の限りを尽くし」て、主に仕えることができたのは、彼の内に、キリストが住まわれたからである。同じことが、私たちにも必ず起こる。私たちは、どれだけ主イエス・キリストにあって生きようとするのか、そのことが大事と心に留めたい。心を低くし、謙遜の限りを尽くす、そんな生き方を導かれたいと思う。そのように生きる証しが、主によって用いられること信じて!!