主イエス・キリストの十字架と復活、これが「もっとも大切なこと」と語った使徒パウロは、キリストの福音を宣べ伝える生涯を生き抜いた人物である。この地上では、ありとあらゆる患難を味わいながら、それでもイエス・キリストを信じて歩むことができたのは、確かな望みがあったからである。その望みとは、肉体の死の後に、天の御国へと移されることにあった。神の前に、キリストにあって義とされた救いが、天の御国において完成するのである。地上ではどんなに困難があっても、救いの完成こそが確かな慰めであり、確かな望みだったのである。その意味で、神は全く公平なお方である。
1、使徒パウロは、各地を巡り、町々に教会が誕生すると、それぞれの教会が、神の恵みによって、そして、神のみことばによって建て上げられることを、心の底から願っていた。心配や、時には憤りを覚えながら、人を遣わし、また手紙を届けて、聖徒たちが、天の御国を目指して、地上の生涯を生き抜くように励まし続けていた。そのような中で、ピリピの町の教会は、どちらかと言うと、パウロに、いつも感謝や喜びを与える群れであった。経済的に貧しさがあったが、心から喜んでささげる教会として、パウロは、いつも感謝を覚えずにはいられなかった。(ピリピ1:3-6)それでも、主にあって一致することは大切な課題であり、偽りの教えを警戒すること、富の惑わしを退けることなど、この世にある教会は、しっかり天の御国を目指して歩むように、パウロは心を込めて語っている。その教えの一端が今朝の箇所である。「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」(17〜18節)
2、やや極端であるが、パウロが「私を見ならう者になってください」と言う時、キリストの十字架を信じて歩むよう勧めつつ、十字架の敵として歩むことにならないよう、警告を込め、涙をもって語りかけている。「多くの人々がキリストの敵として歩んでいる」事実は、その当時の社会、ローマ帝国が支配する世界で顕著であった。いつの時代でも、人々の関心は富に向かい、目の前のこと、自分の欲望を満たすことが最優先となる。「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(19節)目の前のことを優先するばかりで、究極の救い、たましいの救い、そして、たましいの平安を無視して生きるなら、その先にあるのは「滅び」である。今日の社会にも当てはまっている。十字架を全く心の留めることなく、「十字架の敵」として歩む人々が、何と多いことか。この日本での割合は、100人中99人という数字が言われる。1000人中と考えると990人となる。圧倒的多数の人々が、十字架とは無関係に生きているが、それは、地上のことにのみ心が向かう人々の姿なのである。
3、「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」とパウロが語るのは、聖徒たちもまた、地上のことに心が向きやすく、多くの誘惑にさらされている事実を知った上での、確かな励ましである。「私たち、天に国籍がある者は、地上のことに心を奪われることなく、救い主キリストが再び来られる日を、心待ちしようではないか」と。(20節)主イエスをキリストと信じる者も、実際にこの地上の日々を過ごす時、多くの誘惑にさらされ、富の惑わしのあることを、パウロ自身、よく理解していた。「人間的なものを頼みにしない私たち」と言いつつも、「ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。・・・」と告白している。(3:4以下)かつて「得」と思って誇ったものを、今は「損」と思うよう、キリストにあって生まれ変わったと言うのである。生まれ変わった者としての生き方、キリストにあって、地上のことから、天上のことにこそ目を向けるようになった生き方を、共に歩もう・・・。これがパウロの心からの思いなのである。この地上のことは、やがて朽ちるとしても、天上のことは永遠に朽ちることなく、私たちのからだは、栄光のからだに変えられる。この望みが私たちに与えられている。「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(21節)
<結び> パウロが、「けれども、私たちの国籍は天にあります」と言った時、私たちは、もっともっと目を天に向け、地上のことに心を奪われないようにしよう、この地上では、主イエス・キリストを信じる信仰を持って歩む者たちは、心を合わせ、手を携え合おうではないか・・・と、そのような思いが溢れていたと思われる。この世での生活において、様々な誘惑が満ちているのは、今の時代も同じである。十字架の敵として歩む人々に囲まれ、その人々は、自分の欲望のまま、思いのままで、自由に幸せそうに見えさえすることがある。見かけ上、何不自由なく過ごしていたり、何の不安もなく、満ち足りていたりする。そのように思える時がある。パウロは、主イエスを信じる聖徒たちが、惑わされ、信仰から逸れることがないよう、祈らずにはおれなかった。私たちのためにも、同じ思いをして、励ましてくれるに違いない。
十字架で、私のために死なれた主イエスが、死からよみがえられたことを信じ、主イエスこそ、私の救い主キリストと告白して、この地上の生涯を、しっかり歩む者、生きる者とならせていただきたい。この地上での日々を喜び、感謝に溢れて歩むことを尊び、しかし、この地上のことに心を奪われず、「私たちの国籍は天にあります」と胸を張って言えるよう心したい。この地上では、いたずらに「国籍」が取りざたされたり、「国」とは、一体何なのかを考えると、答えを見出すのは難しくなるばかりである。私たちは、天に国籍のある者として、ではどのように生きるのかを、今まで以上に心して生きること、歩むことが導かれるよう祈りたい。(※ガラテヤ3:26-29)
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