礼拝説教要旨(2016.10.23)
よみがえられたイエス
(マルコ 16:1〜8)
 
 先週は、伝道礼拝で「十字架につけられたイエス」の説教題にて、主イエスは、一体何のために十字架で死なれたのか、福音の肝心な部分に目を留めた。私たちの罪の赦しのため、主イエスは、十字架で苦しみを忍ばれたのであった。イエスの十字架を、心から信じる信仰を確かめることができたであろうか。あるいは、その信仰を、初めて、堅くするように導かれたであろうか。今朝は、引き続いて、もう一つの肝心なことである、イエスのよみがえりの事実に目を留め、心からイエスを信じる信仰を、一層堅くさせていただきたい。

1、十字架の上で、罪人の罪を贖うため、身代わりの死を遂げられたイエスは、完全に息を引き取られ、その亡骸は十字架から降ろされた。兵士たちは、イエスの死を確かめ、イエスのからだの下げ渡しを願ったアリマタヤのヨセフに、後のことは任せたのであった。ヨセフは、イエスのからだを真新しい亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入り口には、大きな石を転がしかけ、番兵が置かれ、しかも、石には封印がされる物々しさであった。ユダヤ人の指導者たちが、イエスが「三日目によみがえる」と語っていたのを思い出し、弟子たちが亡骸を盗み出すといけない、と心配したからである。(マタイ27:62-66)実際には、弟子たちにそんな勇気はなく、イエスの死を目の当たりにして、意気消沈、前途は暗澹として、ユダヤ人たちを恐れて息を潜めるばかりであった。恐らく弟子たちは、何も考えられないまま、安息日が過ぎるのを待っていただけである。そんな時、イエスの亡骸が墓に納めれる所をしっかり見ていた女たちは、安息日が明けると、早速、墓に急ぐのであった。彼女たちは、イエスのからだに油を塗ろうと、埋葬のための品を用意していた。もう一度埋葬をやり直したい、そんな思いがあったと思われる。(1節、ルカ23:55-24:1)

2、墓に着いた彼女たちの心配は、あの入口の石を転がしてくれる人がいるのか、自分たちではとても無理・・・と、途方に暮れていた。「ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。」(2〜5節)墓の入口は開いていて、イエスのからだは、そこになかった。「青年」と思ったのは「御使い」であり、その御使いは言った。「『驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。』」(6節)十字架で死なれたイエスはよみがえられた。ここにはいない。死からよみがえった方は、もう墓にはいない!と、告げられたのである。女たちは、イエスのよみがえりを、弟子たちに知らせるように言われた。また、墓ではなく、以前、共に働いた所、共に生きて過ごした所、ガリラヤに先に行く・・・と告げるようにと。彼女たちの戸惑いは大きかった。墓を出て、「そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」空の墓の衝撃は測り知れないものであった。(7〜8節)

3、イエスが死からよみがえるとは、弟子たちはもちろん、誰一人として信じてはいなかった。ほんの少しでも期待した・・・という気配もない。ユダヤ人指導者たちが、「よみがえり」について思い出したのは確かである。けれども、彼らは、信じて心配したわけではない。今日に至るまで、ほとんどの人が、全く信じようとはしないのが、「イエスのよみがえり」であり、「死人の復活」である。しかし、イエスご自身は、「よみがえり」について語っておられた。(マルコ8:31、9:9-10、9:31、ヨハネ11:25)そして事実、墓に葬られたイエスのからだは、三日目の朝、墓にはなく、「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたのです」と告げられた。イエスはその日の早い内に、マグダラのマリヤに出会っておられる。ペテロにも姿を現し、エマオ途上の弟子たちに現れ、夜遅くには、弟子たち一同がいる部屋の真ん中に立たれた。驚き恐れる弟子たちに、「まさしくわたしです」と、手や足を見せ、霊ではなく、肉や骨のあるからだをもって、死からよみがえったことを示された。弟子たちは、少しずつではあったが、イエスのよみがえりと信じる者となり、やがて、イエスのよみがえりの証人となった。彼らは、自分たちの見たことを語らないわけにいかない・・・と、イエスの十字架と復活を、決して切り離せない出来事として宣べ伝えることになった。(使徒2:32、3:15、4:10、19-20)弟子たちは、イエスのよみがえりがなかったら、再び立ち上がるなど、到底できない位に打ちのめされていたからである。

<結び> 弟子たちが、主イエスのよみがえりを宣べ伝えた時、とんでもない教えと、怒りを燃え上がらせたのがサウロ、後のパウロであった。彼は、神を信じ、神への熱心さのあまり、イエスの弟子たちを迫害し、死人の復活などを宣べ伝えさせてはならないと考え、弟子たちを追い詰めていた。そのパウロにもイエスは近づき、彼はイエスを信じる者に変えられた。その時から彼は、迫害する者から迫害される者になった。復活について、「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと・・・」と語り、よみがえられた主イエス・キリストは、「私にも、現れてくださいました」と語っている。(コリント第一15:3-8)イエス・キリストのよみがえり、死からの復活は、人の考えの到底及ばない事柄、有り得ない出来事かもしれない。そうだとしても、事実として起こり、イエスをキリストと信じる者を次々と起し、福音は全世界へと宣べ伝えられているのである。

 パウロは、次のようにも語っている。「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。・・・もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。・・・もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れなものです。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(同15:14-20)私たちが、主イエス・キリストの十字架の死と、死からのよみがえりを信じる者とされていること、これは不思議中の不思議である。神が成さる奇跡そのものである。たましいの救いは、実に、恵みにより、信仰によるとは、正しくこのことであると、心から言うことができる。主イエスは、私のために十字架で死なれ、三日目によみがえられ、今も生きて働き、聖霊を遣わして、私たちの傍におられるお方である。私たちは、そのよみがえられた主イエスを、救い主キリストと信じるのである。