「この国で主イエスを信じること」をテーマにした伝道集会、昨日は「人の悪の根源は何か」と題して、聖書の教えに耳を傾けた。二日目はズバリ「十字架につけられたイエス」との説教題にて、十字架につけられたイエスご自身に目を留め、心の耳を傾け、神からの語り掛けを聞きたい。主イエスは全く罪を犯すことなく、しかし、罪ある者の身代わりとなり、十字架につけられた。十字架につけられた主イエスのお姿を、しっかりと心に刻みたい。
1、創造主である神の言いつけに背いた人間は、その背きのゆえに、ありとあらゆる罪、咎、また悪に囚われ、その悪しき性質から自由になることは、もはや不可能な存在となっている。時には良心の呵責に悩み、苦しんだとしても、自分で自分の罪を取り除くことは、誰一人としてできない、それが人間の現実である。罪や悪を離れ、何とか自分を正そうとしても、内側に潜む罪は、どうにもならない位に深刻なものである。けれども、神はそのような人間のために、救い主を備え、救い主の元へと、私たち人間を招いておられる。神が備えて下さった救い主とは、十字架につけられたイエス、ただ一人罪のない方として、十字架で死なれたイエス・キリストである。主イエスが十字架につけられたのは、朝の9時頃であった。捕えられたのは前日の真夜中、夜通しの裁判の後、夜が明けて、総督ピラトの前で裁かれた。ピラトは、イエスに罪はないと確信したにも拘らず、群衆の声に負け、「イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。」兵士たちは、イエスに紫の衣を着せ、いばらの冠をかぶらせ、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と嘲りながら、散々嘲った後で、もとの着物に着せ替え、十字架につけるためゴルゴダへと向かわせた。最初は、イエスご自身に十字架を背負わせ、途中、クレネ人シモンにむりやり背負わせながら、処刑場であるゴルゴダへと進んだ。イエスの体力は消耗し切っていた。「彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。」主イエスは、十字架で受ける苦しみを、いささかも割り引くことなく、その苦しみを受け止めておられた。(16〜26節)
2、イエスの十字架を真ん中に、右と左に、「ふたりの強盗」が十字架につけられた。罪のない方が、罪ある者のひとりとして十字架につけられていた。道行く人々は、頭をふりながらイエスをののしっていた。十字架のイエスを見て、この人に期待したのを悔いていたのであろう。ユダヤ人の指導者たちは、みな勝ち誇ったように嘲っていた。「『・・・今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。』」右と左にいた強盗たちも、イエスをののしっていた。イエスはそれら聞きながら、決してののしり返さず、耐え忍んでおられた。三時間が過ぎ、全地が暗くなって、更に三時間、午後三時になった。苦しみを耐えておられたイエスは、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」罪に対する裁きとしての死を遂げることは、最も信頼し、最も愛して止まない父なる神から退けられ、見捨てられることであった。父なる神は、御子なるイエスに背を向けたおられた。十字架のイエスは、孤立無援で、神に見捨てられる痛み、苦しみの極みを忍んでおられた。人々はその言葉の意味を解せず、見守るだけであった。こうして遂に、「イエスは大声をあげて息を引き取られた。」イエスの最後の言葉は、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」であった。(ルカ23:46) 絶望の淵にあっても、イエスは、神への信頼を失わなかった。そのようにして、十字架の死は遂げられたのである。
3、イエスの死を見届けた百人隊長は、「『この方はまことに神の子であった』と言った。」彼は、一部始終の全てを見たひとりである。恐らく、逮捕から、今に至るまで、イエスの人となりを見て、知って、何も考えないわけにいかなくなったのである。十字架の上で語られた、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」との言葉を、近くで聞いたはずであった。罪のない方が、罪人のひとりとして処刑されるのは、一体どんな意味があるのか・・・。考え抜いた答えが、「この方はまことに神の子であった」なのである。遠くから見守っていた女たちがいた。その中にマグダラのマリヤがいた。イエスにいつもつき従い、よく仕えた女たちであり、他にも多くの女の人たちがいた。福音書が記す十字架の光景に、なぜか弟子たちの姿はほとんど描かれていない。彼らの大半が、恐れて逃げてしまったからである。そうした事実は、私たちに、あなたがたは、このイエスを誰と言うのかと、重大な問いを突き付けるのである。今日ここにいる私たちは、十字架につけられたイエスを、私とどんな関係のある方なのか、よくよく考えるようにと迫られている。罪のない方が、なぜ死なれたのか。なぜ父なる神に見捨てられる、そんな苦しみを味わわれたのか・・・等々。
<結び> 私たち人間は、自分がどれだけ罪深いものであるのか、どうにもしようのない位に、内側に悪が潜んでいることを、本当に気づいているのだろうか。立ち止まって、真剣に自省するべき事柄である。これは、私自身への自問である。なぜなら私は、自分の罪深さについて、なかなか本当に自覚しているとは言えないからである。「この国で主イエスを信じること」とテーマを掲げたが、この日本の社会に住んでいると、絶対者の存在の前に、心を低くして、自分の非を認めることは、多分、ほとんどしないでよい、となっているように思われる。絶対者はいない! 神なんかはいるはずがない! これが大前提のようだからである。どんなに悪しき行いをしても、裁くのは、周りの人間であり、皆、どうせ同じような傷をもっている。それなら、何とか切り抜けさえしたら・・・と、目先の利益や、互いの力関係のみが幅を利かすことになる。
生ける真の神がおられ、神が全てを見ておられ、正しい裁きがなされることを覚えたい。その裁きの時、神の前に罪の赦しをいただくのは、十字架のイエスを救い主と信じる者である。主イエス・キリストは、私が、神によって裁かれるはずの死を、身代わりとなって死なれたお方である。また、その死を打ち破ってよみがえられた方である。十字架の死で終わったのでなく、死からよみがえられたからこそ、この方に本当の望みを置くことができる。神の前に、自分がどのような者であるか、よくよく見つめることができるように。そして、自分で自分を正しくも、聖くもできないことを認め、イエス・キリストを信じることが導かれるように。
※神を認めない社会は恐ろしい→互いに人を徹底的に攻める。
→決して自分の誤りを認めない。
例1:死刑制度を巡っての考え方:賛成か反対か・・・
例2:第二次大戦を巡っての考え方:自衛か侵略か・・・
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