今年は、「この国で 主イエスを信じること」というテーマにての伝道集会開催となった。私たちはこの日本という国で生活をしている。この日本の社会の中で、イエス・キリストを信じる信仰を持って生活することは、一体どのようなことなのか、そのようなことを覚えながら、しっかり聖書を読んでみたいと思ったからである。もちろん世界中のどこにあっても、聖書は「信仰と生活の唯一の規範である」ことに変わりはない。でも、私たちは、この国で生かされているわけで、この社会にあって、何を考え、何を思い、どのように生きるのか、それが大事と思う。第一回目の集会では、主イエスが語られた教えに耳を傾け、主イエスは、私たち人間の「悪」について、どのように語っておられるのか、そのことを学んでみたい。
1、この日本の社会の特徴の一つに、神概念の稀薄さがあることは、既に何度も指摘している。神など信じていない・・・と言いつつ、「神頼み」を繰り返すのが、多くの人の日常のようである。もう一つ、日本の社会で特徴的なこと、それは「善悪」の規準の曖昧さではないだろうか。ある時は「正しい」とされていたことが、いつの間にか「正しくない」「誤りである」と、規準が全く変わることがある。その最たることが、1945年8月15日の敗戦を境に起こったことと思う。けれども、その時の変化や価値観の転換を、私たちが住むこの社会は、大して重要視することなく、曖昧なまま通り過ぎ、今日に至っている。何が正しく、何が間違っているのか、そのような事柄は、その時々で変わることであり、余り重要なことではない。大勢の人が正しいと言うなら、それに従えばよく、大勢の人が行く道を一緒に歩めば、それで良い・・・と考えている。しかし、そのような社会は危うい。人々がそのような生き方を選び取るなら、その先に何があるのか、その先にあるのは滅びであると、私たちは心しなければならない。「正しいこと」と「正しくないこと」、あるいは「善」と「悪」を見分けるには、私たち人間以外のところにある、絶対的な規準が必要となる。相対的な人間が考える限りは、移り変わったり、すり替わったりする規準しかなく、そのために人類は、いつになっても争いが絶えないことになる。聖書こそが大事というのは、このような視点からのことなのである。
2、ところで、「善悪」や「正邪」の判断をする時、私たちは、物事の外面的なこと、また表面的なことによって判断することが多い。私たち自身の内面を探るのは、つい後回しになる。主イエスが、「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです」と言われたのは、人の心にこそ、「悪」が潜んでいることを知るように、認めるようにとの指摘である。主イエスとその弟子たちの行動を、鋭く監視していた人々は、弟子たちが手を洗わないまま食事をしたことを咎めていた。人々は、清めの儀式なしに食事はしない・・・と、戒めに忠実であることを殊更に大事にしていた。しかし、主イエスは、その拘りは、人の内にある「悪」を見落とすことになると言われた。弟子たちも、よく分らず尋ねると、「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです」と言われた。人の口から入る食べ物が、人を汚すことはなく、人が口から出すもの、すなわち、口から出る「悪口」など、心の中にある、様々な悪しき思いが内から外に出ることが、他の人を汚すことになる。人を汚す、ありとあらゆる「悪」、それは人の心に潜んでいる。人は、一見どんなに良さそうな人でも、その人の心には、どうしようもない「悪」が宿っている。「人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」私たちが認めるべきことは、私たち人間の内面は、言い逃れようのない位、悪に染まっている事実である。そのために、実際に悪が表に出て、人々は互いに争い、また傷つけ合う。この事実を否定できる人はいない。
3、人の内側から出て、他の人を汚すところのあらゆる「悪」は、ほとんどの場合、先ずは口から出る「ことば」となって表れる。主イエスは、「殺してはならない」の戒めに関連して教えておられる。「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって、『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:22)誰でも、語る「ことば」にこそ、細心の注意が求められる。心にある「悪」は、必ず「ことば」となって発せられるので、「口」を制すること、「舌」を制御することが、繰り返し説かれている。しかも、「しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています」とまで言われる。人の悪は、その人によっては制御不能だからである。「私たちは、舌をもって、主であり父である神をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」(ヤコブ3:8-10)「あってはなりません」と言われても、事実、そのようにしか振る舞えない。それが、私たち人間の現実である。人の悪の根源は、実にどうしようもなくなく深く、人の手には負えないものと言わねばならない。はなはだ良いものとして造られた人間が、神から離れて、神なしで生きようとした時から、神への背きの罪に染まってしまったからである。そこからあらゆる悪が人を支配し、最早、自分の力ではどうすることもできなくなったのが、人間の現実である。もちろん、人間の素晴らしさがあり、良きものが全く失われてしまったとは言い切れない。けれども、心の内にある「悪」を制御できずに、悪しきことばを発してしまい、悪しき行いに向かってしまう私たちである。そのような私たちのために、救いの道、助けの手は果たしてあるのだろうか。
結び 私たち人間は、最初の人アダムにおいて神に背き、罪に堕ちて以来、自分で自分の内にある「悪」を制することができないでいる。幾らかはできても、完全に制することのできる人はいない。そのことを認めると、私たちは自分に絶望するしかない。世の中の多くの人は、そんな情けないことは考えないでおこう・・・、もっと気楽に生きようよ・・・と言うのかもしれない。日本の社会は、正しくそのようである。神なんかいるはずがない! どうせ皆、好き勝手に生きてるじゃないか! 歌って、踊って、楽しく・・・。堅苦しいことは止めよう・・・!! 本当にそれでいいのか? 問題解決の糸口は、自分を知ること、そして、善に対して無力な自分に、自力では助けがないと認めることである。
聖書は、罪に堕ちて、悪に染まった人間のために、神が救い主を備えておられると、繰り返し教えてくれる。悔い改めて、神に立ち返るように・・・と。主イエス・キリストが十字架で死なれたのは、自分ではどうすることもできない私たちのため、身代わりとなって死なれたのである。罪の刑罰としての死を、身代わりとなって死なれたのである。父なる神は、御子を遣わし、罪のない御子のいのちを代価として支払われ、それによって、罪ある私たちを救おうとされた。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。・・・」(ローマ3:23-25)「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)十字架で死なれ、三日目によみがえられた主イエス・キリストを信じる信仰によって生きる時、私たちは、罪から解き放たれ、悪に支配されることなく、神と共に生きる者とされる。感謝をもって生きる者とならせていただこうではないか。主イエス・キリストを私の救い主と信じることが、私にとっての一番の幸いと信じて・・・。
|
|