礼拝説教要旨(2016.10.09)
神に背いた人間
(創世記 3:1〜19 )

 先週は、創世記1章より、天と地を造られた神がおられること、創造主なる神が真の神であることを学んだ。人が次々と勝手に神々を生み出し、自分に都合よく神々を呼び出すのは、神が造られたすべてのものをご覧になった「それは非常に良かった」という状態から、全くかけ離れてしまっているからである。創造主である神が、神ご自身のかたちに似せて人間を造られ、人間は、神と共に歩み、神に従って生きること、そして、造られた全てのものを治めるように命じられていたのである。人は何不自由なく、幸いな日々を生きていたにも拘らず、なぜ、その始めの良い状態が失われたのかを、今朝は学ぶことにする。

1、創世記2章は、神の創造の御業のうち、人間の創造について詳しく記している。「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻に息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」(7節)造られた「人=アダム」は、エデンの園に置かれた。「神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。」(8〜9節)神が人をエデンの園に置かれたのは、そこを耕させ、またそこを守らせるためであった。そして、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と命じられた。(15〜17節)その後、神は人のため、助け手として女を造られたと記されている。(18〜25節)神が「善悪の知識の木」に関する命令を告げられたとき、その禁止命令によって、人に、何かの不自由さをもたらすことは全くなかった。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」一つのこと、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。・・・」と言われただけで、神の命令に服従する限り、神と共に歩む幸いは保障されていた。人間にとっての幸いは、神と共に歩むことだったのである。

2、ところが、ここに蛇が登場し、先ず女を誘惑した。蛇の誘惑は、神への不信感を呼び覚ますことにあった。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(3章1節)神が、実にとんでもないことを仰ったようですね・・・」とばかり、神の命令は理不尽と思わせる意図が込められている。女は、「いいえ、そんなことはありません・・・」と答えつつ、曖昧な言葉を発している。「『あなたがたは、それを食べてはならない、それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」(2〜3節)蛇はしめしめとばかり、一気に攻め込んだ。「『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』」(4〜5節)人が神のようになることを、神が妨げているのだ・・・と吹き込んでいる。しかも、「あなたがたは決して死にません」と、神の言葉を否定した。女はそのそそのかしに嵌ってしまった。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」(6節)神の言いつけ、命令に背いてしまった。服従でなく、不服従の罪を犯したのである。

3、目が開け、神のようになる・・・、しかも、賢くなると思われた木の実であったが、彼らが見たのは、自分たちの裸の姿であり、それはいかにも弱々しく、惨めさを思い知らされるだけであった。二人は「いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」その覆いは、いずれ干からびるもの、そんな物しか作れず、以後、神から身を隠すことになる。神との幸いな交わりを、喜べなくなってしまった。神の声を聞いても、息を潜め、自分から進み出ることはできなかった。(7〜8節)けれども、神はそのような人、アダムに向って「あなたは、どこにいるのか」と声をかけておられる。自分からは何をしたのか、言い出せない彼に、神は悔い改めを促しておられた。それでも彼は、自分の非を認めなかった。「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・・」と言い張り、神に責任があると言わんばかりである。(9〜12節)一度神に背いた結果、たちまち人間に罪が入り込み、神に並び、神はいらないとする、現在の人間の姿そのものの振る舞いをしている。神は女にも問われた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」しかし、彼女もまた、自分の非を認めることはしなかった。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(13節)ここにあるのは、神に背いた人間の姿である。神の言葉に従わず、自分の判断によって、神に並ぼうとした人間は、自分からは、決して罪を認めないものとなった。これが神への背きの罪の姿である。この背きの罪は全ての人に及び、罪に対する裁き、死を免れる人は一人もいない。
(ローマ3:10、23、4:12)

<結び> それでも神は、女を惑わした蛇に裁きを宣告し、人に対する救いの道を備えることを約束された。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(15節)神に敵対するサタンは、蛇の形をとって人を惑わしたのであったが、究極的には、神がサタンを踏み砕くと言われている。それは主イエス・キリストの十字架の御業による勝利を暗示するものであって、十字架の御業の勝利とは、死からのよみがえりによって明らかになる。人々がイエスを十字架の死に追いやったものの、イエスは死を打ち破ってよみがえられた。神がご計画された救いの御業が、ここで告げられていると理解されている。(ローマ6:23)

 16節以下、罪が入った後の人類の歩みについて、生みの苦しみのこと、労働には苦悩が伴うこと、そして、人は必ず土に帰ることが告げられる。そこに流れる教えは、神を信じて歩むのか、それとも神なしの歩みをするのかを問うものである。神を仰ぐ人生を歩むように・・・と、聖書は説き続けている。神なしの人生は、ただ滅びに向かうだけであり、神なしの死は滅びに至る!と。あなたは、どのような人生を送ろうとしているのか。聖書は、私たちにその問を発し続けている。神に背いたままの日々を送ることなく、悔い改めて、神に立ち返り、神と共に歩む人生を、感謝と喜びをもって歩ませていただきたい。