15日(土)と16日(日)に伝道集会を控えた今月、使徒の働きからの説教はお休みして、私たちクリスチャンの信仰の基本的な事柄について、何を、どのように信じているのかを整理してみたい。その全体を扱うことはできないが、基本的なこと、肝心なことに触れることにする。今朝は先ず、聖書、旧約聖書の冒頭の言葉に目を留めたい。「初めに、神が天と地を創造した。」(1節 ※文語訳:元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり 口語訳:はじめに神は天と地とを創造された。)聖書の主張は、神がいる、いないの説明はなしに、「神が天と地を創造した」と、明快である。
1、私たちが住む、この日本の社会では、また日本語では・・・という課題であるが、「神」という概念ははなはだ不明瞭である。そのために「神」という訳語にも、不明瞭さが付きまとっている。その不明瞭さはあったとしても、聖書は、この世界、全宇宙の拡がりは、創造主である神の作品であることを明言している。「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」(2節)神が天と地を創造された、その初めにおいて、「地は茫漠として何もなかった」とは、その時点における「無」の状態を指すものと考えられている。けれども、「無」であっても「やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた」とは、大水を覆うやみがあり、その一切を支配なさる神がおられたことを告げている。そして、「神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」(3節)「光があれ」との神の一声によって、光があった。すなわち、神が「光」を造られたのである。以後、神が「ことば」を発せられると、その命じられた通りになる。神の創造のみ業は、神が発せられる「ことば」によって進められる。「神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。」更に「神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。」(4~5節)
2、神が天と地を創造された時の、第一のものは「光」であった。光はありとあらゆるエネルギーの源である。今日の世界が、光なしには存続し得ないことを考えても、光の創造は理にかなっている。しかも「神は光を見て良しとされた。」神の創造のみ業の確かさ、完璧さを告げている。神は創造者として、第二日には「大空」を造り、水と水との間を区別された。(6~8節)第三日には、天の下の水を一か所に集め、かわいた地と海とを別けられ、地に植物を生じさせられた。(9~14節)第四日には、太陽、月、星を造り、昼と夜、光とやみの区別をされた。(15~19節)続く第五日に、水の中の生き物、空の鳥を、第六日に、家畜や、はうもの、野の獣などを造られた。地の植物や家畜や獣たちは、いずれも「種類に従って」生じるように命じられ、そのことばの通りになった。そして、「神はそれを見て良しとされた」と、はっきり記されている。(20~25節)そのようにして、全てが造られ、天と地の一切を整えた後に造られたのが人間である。「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』」他の造られた物との違いは、神ご自身のかたちに似せて、「さあ人を造ろう」と、神のご意志が込められていたことにある。特別な存在として人は造られていた。(26節)
3、そして、神は人に、全被造物を治める務めを託された。人は、神から託された務めを果たし、神に従って生きる存在として造られている。人に必要なものは全て、神が備えて下さり、神と共に歩むこと、神に従って生きることが、人間にとっての幸いであり、最初の人は、その「非常に良かった」と言われる状況を、心から喜ぶ者として造られたのである。(27~31節)私たちが住むこの世界は、この最初の状態からはかけ離れてしまった世界である。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」と、神から命じられた人間であるが、富を追う余り、自然を壊し、今や誰も制御し得ない核のゴミを、世界中で生み出し続けている。それでいて、自らを省みることはない。なお富を貪り、自分の知恵と力を誇りたいのが、私たち人間の現実の姿である。その原因は一体どこにあるのか。驕り高ぶるのは止め、神のかたちに造られた人間であることを知ること、謙虚に認めること、それこそが、人間本来の姿に立ち返る第一歩である。本来の姿から離れた原因、神を神と思わず、自分を第一として生きる者となった、そのいきさつは次週に学ぶが、先ずは「天と地を造られた神」がおられること、創造主なる神こそが、真の神であることをしっかり覚えたい。天と地を造られた神がおられることを。
<結び> 私たちは、漠然と「神」を信じるのではなく、「天と地を造られた神」を信じることを大事にしたい。真の神は、天と地を造られた「創造者」である神である。そのことを曖昧にすると、私たち人間は、自分に都合よく、自分に仕えてくれる神々を造り出す。あれも神、これも神と、神々は無尽蔵となる。しかし、それらの神々は、人の助けなしには、一歩たりとも動けず、全くの無力である。(詩篇115:2-8、135:15-18)もちろん、人間は自分の都合で、次々と神を造り出し、自分に仕えてくれる神々を生み出すので、何不自由することなく、神々の無力さを嘆くことさえしない。これが神を忘れ、自分勝手に生きる人間の姿である。
今月、伝道集会を開くのは、生ける真の神のみこころに叶うこと、神の摂理とご計画によることと確信する。この日本の社会は、一年中、あちこちの神社仏閣の祭りで溢れているが、特に秋は、祭りの季節である。私たち教会は、この時こそ、自分の信仰を確かめ、この異教が溢れた社会の中で、自分は何を信じているのか、何を心の拠り所としているのか、いよいよ明確にすべきと思う。天と地を造られた神を知ること、この神の前に出て、神に背いた罪を認め、神が備えて下さった救い主、十字架で身代わりとなって死なれたイエス・キリストを、私の救い主と信じているかどうか、自分に問うことを導かれたい。信じているなら、その信仰に導かれていることを感謝し、神への服従の心を増し加えていただきたい。 まだ信じていないなら、信じられるように祈り、ぜひ一歩踏み出す時が導かれるように。神を信じ、心砕かれて歩む人が、この教会に溢れ、それぞれの所へと遣わされることを祈りたいものである。
|
|