礼拝説教要旨(2016.09.25)
慰めにつつまれて
(使徒の働き20:7〜16)

 三年におよぶエペソ伝道を一段落して、「パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げて、マケドニヤへ向かって出発して。そして、その地方を通り、多くの勧めをして兄弟たちを励ましてから、ギリシヤに来た。」(1〜2節)コリントの教会に問題を解決するため、そこで三か月を過ごしたが、旅全体の目的は、エルサレムの教会を助けるために献金や物資を集め、それを諸教会の代表者たちと共に届けることにあった。パウロはどこに行っても、キリストの教会は一つであることを説き、互いに励まし支え合うことが、教会のいのちそのものであることを教えようとしていたのである。

1、エルサレム行きの同行者たちがトロアスで揃った時、そこで七日間滞在することになり、週の初めの日に、パンを裂くために集まることになった。それは聖餐式を伴う礼拝のため、人々が集まることであった。異邦人の教会では、主イエスが十字架の死からよみがえった「週の初めの日」に、聖徒たちが礼拝のために集まることが定着していた。けれども、まだその日は休みではなく、人々は仕事を終えてから礼拝に集うので、聖餐式と共に愛餐会もしていたものと思われる。集会は夕方からで、その日は、パウロから教えを聞こうとして、夜遅くまで続いていた。(7節)大勢の人が集まり、人々が集まっていた屋上の間は、ともしびがともされ、人いきれも重なり、窓のところに腰を掛けていたユテコ青年に、とんでもない災いがおよぶことになった。「ひどく眠気がさし、パウロの話が長く続いたので、とうとう眠り込んでしまって、三階から下に落ちた。抱き起してみると、もう死んでいた。」(8〜9節)その場は大慌てとなったに違いない。この時、「パウロは降りて来て、彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて、『心配することはない。まだいのちがあります』と言った。」全く冷静さを失うことなく、神の御力による奇跡を起こしたのである。ユテコは死からよみがえり、集会は続けられた。しかも、「人々は生き返った青年を家に連れて行き、ひとかたならず慰められた。」(10〜12節)

2、ユテコ青年に対して、窓に腰かけるなんて・・・、また居眠りするなんて・・・と、非難する人がいたのだろうか。他方、パウロの話も長すぎた・・・とか、みんな疲れてるのに・・・と、つぶやいた人もいたのだろうか。一体この出来事は、何を教えるために記されているのか、少々戸惑いを覚えるものである。ユテコは死んだのでなく、気絶してただけで、だからパウロは冷静に、「まだいのちがある」と言ったとの解釈もある。けれども、これを記した医者のルカが、「もう死んでいた」と判断したのであり、パウロは「生き返った」ことを告げていた。そして、集会は何事もなかったかのように続けられた。パンを裂く聖餐式を行い、礼拝をささげ、互いに語り合う交わりを明け方まで過ごすのである。そこに集まった聖徒たちは、一人の青年が窓に腰かけ、居眠りしているのに気づかない位、パウロの話に集中していたのも事実であろう。そして、「人々は生き返ったユテコを家に連れて行き、ひとかたならず慰められた」記されるように、みなが大きな慰めにつつまれたことが、この出来事が記される大きな意味と理解できるのである。教会で行われている全ての背後に、主イエスご自身が共におられるとの確信をもって、何が起こっても慌てない態度を、私たちも持っていたいと思う。

3、一行は大きな慰めをいただき、また慰めにつつまれて旅を続けた。大半の者は船で先に出発することにし、パウロは陸路でアソスで落ち合うことになった。もうしばらくトロアスに留まったのは、ユテコのことを心配したからかもしれなかった。あるいは、その町での聖徒の交わりをもうしばらく続け、旅の日程に影響しないようにして、後から行くことに決めたようである。トロアスからアソス、アソスからミテネレ、ミテネレからサモス、そしてサモスからミレトと、海岸沿いの町を南に向かって経由していた。アジヤの諸教会のことは、大いに気になりながら、エペソには立ち寄らず、「彼は、できれば五旬節の日にはエルサレムに着いていたい、と旅路を急いでいたのである。」(13〜16節)旅路を急いでいた一行の心を満たしていたのは、何であろうか。パウロがいつも心を注いだのは、人々を励ますことであり、御言葉を語り、主イエスの福音を告げて、人々が確かな信仰の進むことであった。行く先々でいろいろな人に会い、いろいろな出来事を経験し、主なる神の大いなる御業に触れて、大きな慰めをいただくことによって、その慰めにつつまれて、先に進むことができた。旅の根底に、いつも主が共におられ、大いなることをして下さるとの慰めがあって、日々を歩んでいた。私たちの日々も、全く同じである。

<結び> 死者がよみがえる奇跡は、イエスご自身がなされた奇跡では、ヤイロの娘(マルコ5:22-43)、ナインのやもめの息子(ルカ7:11-15)、そしてラザロの出来事(ヨハネ11:1-44)がある。またペテロによるヨッパのタビタの出来事(使徒9:36-43)があり、旧約聖書では、エリヤとエリシャによる奇跡が記されている。(列王T17:8-24、列王U4:18-37)神は、この時にはこの奇跡を・・・と神ご自身の力を、人を通して現わそうとされる。その奇跡を見た人々、経験した人々は、神を信じる信仰を強められる。神が、いつでも、どこにでも共におられ、手を差し伸べて下さることを知って、「ひとかたならず慰められる。」そして、大いに慰めを得て、前に向かって進むことができるのである。

 先週、教会のいのちは、「励まし支え合うこと」にあると学んだ。「慰めにつつまれること」も、やはり教会のいのちの一面である。教会の活動が多方面に渡ることになり、多くの方が集われるようになると、様々な対応が、時に必要となる。何をするにも、主が共におられるとの確信に支えられ、主が必ず働いて下さる経験を積み重ね、互いの思いやりや労り、そして、祈りによって、一つ一つのことが、着実に進められる尊さを知らされる。聖書の時代と同じ奇跡が起こることはなく、奇跡によって何かが変わることはない。なぜか? 主イエスの十字架と復活という、最高にして最大の奇跡が聖書によってはっきりと知らされ、それを信じる信仰に私たちが導かれているからである。その信仰に立つ時、私たちは主によって大いに慰められ、必ず前進できるからである。パウロに導かれていた初代教会の姿を通し、私たちの教会も、大いなる慰めにつつまれながら、一歩一歩、前に向かって進めるよう祈りたい。