「神のみこころなら」と、再びエペソに戻って来たパウロは、その町を中心にしてアジヤ州の人々に、主イエス・キリストの福音を伝えることになった。先ずは、聖霊を受けて歩むこと、聖霊に満たされ、感謝や喜びに溢れて歩むことの尊さを、エペソの聖徒たちに教えたのであった。恐らくパウロは、このことこそが大事と、痛感していたからである。以下、使徒の働き19章8節からは、エペソの町で何があったか、パウロの働きはどのようであったかを記し、「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った」と、20節で一区切りとなっている。いろいろな出来事を通して、「主のことば」が人々に届けられ、「主のことば」が、力強く、生きて働いたのである。
1、パウロは、エペソの町でも他の町と同じように、先ずはユダヤ人の会堂に入って、そこで主イエスのことを語った。少し前、この町に立ち寄った時、「人々は、もっと長くとどまるように頼んだ」ことがあったように、パウロは珍しくユダヤ人たちから歓迎されていた。それで「三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと務めた」のである。(8節)この町にいるユダヤ人たちが寛容であったのか、心が開かれていたのかは不明であるが、とにかく異例なことであった。けれども、時間の経過と共に、「ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしった」ので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、会堂を離れ、ツラノの講堂で論じることになった。この町には、具体的に学ぼうとする場所があり、探究心に富む人々がいたのである。会堂では安息日毎であったのが、ツラノの講堂では、毎日、福音を語り、人々と論じる道が開かれた。その尊い働きが「二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞」くことになった。(9〜10節)エペソには多くの人が出入りし、そこで福音に接した人が、帰って行った先々で証し人となり、アジヤ州の各地に教会が生まれることになるのである。正しく、「主のことばは、驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」(20節)
2、この町での伝道には、驚くべきことがあった。「神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊が出て行った。」(11〜12節)神は、パウロの手を介して、ご自身の力を現しておられた。神がこの時を見計らって、人々に力をお見せになられること、それが奇蹟である。人々が、パウロの語る言葉を、より確かなものとして受け留めるように、奇蹟を見せておられた。これを見た人々の中には、同じような力が欲しい、魔術なら自分もできるに違いないと、パウロの真似をした者がいた。彼らは自分たちのする魔術と、パウロの奇蹟を同列にして、同じことをしようとして、散々な目にあっている。主イエスの御名による奇蹟は、魔よけ祈?師たちのものとは、全く異質のものだからである。そして、彼らの失態を通して、主イエスの御名は一層広まることになった。神は、主イエスの御名が広まるために、パウロ自身や、パウロが身に着けているものまでを用いて、ご自身の力を人々に見せ、また気づかせ、真の神にこそひれ伏すようにと、手を差し伸べておられた。(13〜17節)
3、このように、福音が目覚ましく前進する時、一番心を探られたのは、主イエスを信じた人々自身のようである。「みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった」のは、エペソや近隣の町にいる一般の人々だけでなく、既に信仰を持って信者になった人々も含まれていた。すなわち、信仰を持って歩み始めた人々の中にも、一連の出来事を通して、心に迫られるものがあり、目を覚まして、歩み直そうとする人々がいた。「そして、信仰に入った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。」(18〜19節)既に、主イエスをキリストと信じて歩んでいたものの、きっぱりと断ち切れずにいること、隠れてする密かな罪の行いなどは、その本人がよく知っている事柄である。他の人に言われても、どうにもならないことを抱えながら、それまで解決できなかったことを、主イエスの御力の確かさを知って、今日こそは決別しようと、心を動かされたのである。エペソの町で、主イエスの御業が、見事に行われていたことになる。主イエスを信じて歩む人々は、確かに変えられた者として、その生き方が変わったのである。罪を離れて、主に喜ばれる者として歩もうと、改めて決心していたことになる。
<結び> 「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」(20節)この言葉の意味することが、私たち一人一人の信仰の歩みにおいても、確かに実現することを祈りたい。主イエスを信じて、私たちが、心の底から変えられること、生き方が根底から変わること、価値観においての方向転換を、しっかり受け止めることができるように。エペソのクリスチャンたちは、この点での信仰理解を、かなり教え込まれたものと思われる。救いそのものを正しく理解すること、また、一人一人、どれほどの悲惨から救い出されたのか、よくよく考えるように、パウロは口を酸っぱくして説いている。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8) 「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです――そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」(エペソ5:8-10) 私たちの生き方は、神の前にいつも明らかである。また人の前にも、実際に明らかである。うわべを飾ることなど、全くできないことである。内側が汚れているからである。私たちの罪は、主イエスの十字架によってのみ、清められ、救いの道は十字架にのみある。イエス・キリストを信じる信仰によって救われること、恵みよって救いに与ることを感謝し、生き方が変えられることを良しとして歩めるように!
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