礼拝説教要旨(2016.08.28)
白い衣を着て
(黙示録 7章1〜17節 柴田 敏彦師)

 この七章は、第六の封印と、八章一節で解かれる第七の封印との間に置かれた幕間にあたります。一節に、 この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押さえ、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。
 「御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう」との声が耳にまだ残っている中で、幻は緊張の中の静かな光景に変わります。風を押さえる御使いの登場です。
「地の四方の風を堅く押さえ」との描写は、まるで暴れ馬を押さえているかのように、手綱を放せばすぐに裁きが開始される状況で、二節、三節、 また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」
風を押さえて、つかの間の静けさが確保された目的が明らかにされます。十四章一節には「小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった」とありますから、この印形には、キリストと父の名とが二つ刻まれていたのです。二重の名を頂いての、神のものであるとの確認、また救いの保証となるものです。
四節、 それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。
この「イスラエルの子孫のあらゆる部族の者」の解釈ですが、黙示録の文脈の中で、これを「肉のイスラエル」と読む訳にいきません。すでに二章九節に「自称ユダヤ人、かえってサタンの会衆」とあり、さらに三章九節でも「サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする」との宣告を聞いています。その前に、一章六節で「私たちを王国とし、祭司とし」とあるとおり、キリストの王国は全ての国々の民からなるものです。さらに、ロマ書二章二九節に「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です」とあります。これらは、この十四万四千人を新しい神の民であるイスラエルを表わすものとして理解する根拠となります。また、十四万四千人との数は、各部族きっちり十二万人の十二倍ですから、象徴的に神の新しい民の完全さを現しているものと解されます。
さて、一見して、イスラエル十二部族のリストとなる五節から八節ですが、旧約聖書に見るリストと異なる点が二つあります。  ユダの部族で印を押された者が一万二千人  
と、ユダ部族から始まる点と、ダン部族の欠如です。ユダ部族が最初なのは、この部族からキリストが出た事によるのでしょう。ダン部族の名が省かれ、代わりにマナセが入っているのは、ダン部族の偶像礼拝が原因であろうと推測されています。士師記十八章三十節の出来事です。 さて、ダン族は自分たちのために彫像を立てた。モーセの子ゲルショムの子ヨナタンとその子孫が、国の捕囚の日まで、ダン部族の祭司であった。
キリストの教会は、偶像礼拝を強いられる時代に生きておりました。偶像礼拝ゆえにダン部族が神の民に数えられていないと知れば、偶像礼拝が神の民にとってどんなにふさわしくないものであるかを読み取っていたことでしょう。神を主と仰ぎ、自らをそのしもべとして生きるのを放棄してはいけない、との戒めともなります。 
九節、 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。 地上から、天上へと場面が変わります。
十節、 彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
この大群衆は、神と小羊とを救いゆえに褒め称えます。十一節、十二節、
 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」
み使いたちは、七重の頌栄をもって、神を拝するのです。全てを神に帰す荘厳な頌栄です。「アーメン」と始まり、「賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢い」の七つが「永遠に私たちの神にあるように」と一気に称えて、再度「アーメン」と閉じています。
まず「永遠に神にあれ」と願うのは「賛美」です。     ちょっとの間だけ誉め称えて終わりではない。永遠の賛美です。そう言えば、最初の「聖なるかな」の三重の頌栄も、四つの生き物は、これを昼も夜も絶え間なく叫び続けております。
これに「栄光が永遠に神にあれ」と続きます。栄光とは、神ご自身の輝きのこと、と言われます。これをみ使いが歌うのですから、天使崇拝を思いつく人間たちは、全くの無知、盲目です。神の御栄えを弁えぬ者たちとなります。
三番目は「知恵」です。神の知恵は私たちの救いに現れました。小羊なるキリストの十字架の死を、私たちを死から命へと贖い出す代価とされたのは、神の永遠の知恵によるものでした。
次は「感謝が永遠に神にあれ」です。割り引き無しで、百%が神の恵み故の救いでした。他に感謝を向ける相手なし。永遠に神に感謝を、となるのです。
五番目は「誉れ」です。人間でしたら、名声とか評判と訳されることばです。「神の評判」とは変な言い方ですが、神がなさること全てがこのお方の評判をこそ上げるものですから、「全ての誉れは、神に」です。
続いて、「力が永遠に神にあれ」と歌います。天地をお造りになった、その力をもって、この世界を保持し、支配されている全能者への賛美です。
最後は、「勢い」です。神の勢いをだれも止められません。敵をうち倒し、嵐を沈め、災いを送り、死さえも滅ぼす神の権能です。
 これらすべてが「永遠に神にあるように」と誉め称えて、「アーメン」と確認するのです。そうです。これら全てが救い主なる神のものなのです。
 主の祈りは、「国と力と栄え」と三つですが、ここでの、み使いたちの七重の頌栄は、神をさらに巨大なお方として覚えさせてくれます。その巨大なお方を「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある」と誉め称える中で、新たな確信と、このお方に委ねての平安をいただけるのです。
 十三節、  長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。
天上界での大礼拝に身を置いて、「あらゆる国民・部族・民族・国語のうちから、だれにも数え切れぬほどの大勢の群集が白い衣を着、しゅろの枝を手に」御座におられる父なる神と小羊なるキリスト・イエスを礼拝する光景を目撃してのヨハネの心には、大きな感激とともに、一体この群集は、どういう人たちなのか、との想いが浮かんだことでしょうね。
「数え切れぬほどの群集」です。教会と言えば、まだ産声をあげてから、わずかに半世紀余り経たところです。力を付けつつあったとは言え、まだまだ小さな存在です。この大群衆が「救われた神の民」とは、容易に思いが繋がらなかったことでしょう。ヨハネは、十四節、 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
今度は、これを聞いてどう思ったことでしょう。「大きな患難」です。そこをくぐったとなると、予想するのは何ですか。「いのちに至る門は小さく、その道は狭い」と言われています。ですから、大患難をくぐり抜けて、天の港にたどりつけたのは「わずかな人々でした」という、そんな報告を予想します。が、とんでもない。実に大群衆が、神の御前にたどりついているのです。牧師でもあるヨハネにとっては、救いの御業の確かさを実感できたことでしょう。御国の旅路は、苦難の中でも、確かに守られていたとなるのですから。
ところで、この大群衆は、「その衣を小羊の血で洗って白くしたのです」と言われています。これを聞いて、ホッとしませんか。もし、「彼らは、殉教の血によって、自らの衣を白く洗った者たちです」とでも言われたら、どうなります。天の御国には、自分の罪の贖いの代価を自分で支払わないと入れない事になりますね。くれぐれもお間違いのないように。殉教者自身の血、ではないのです。
ここにも、徹底して福音の調べが聞かれます。キリストの血によって「白くされた」のです。信仰によって、キリストの血の洗いをいただいた者たちが、患難の中でも、耐え忍んで、その信仰を捨てず、御国への旅路を歩み通した事になります。
「大艱難」と聞くと、すぐに、私は大丈夫かしら、と自分の事が気になりませんか。しかし、すべてはキリストの恵みゆえでした。地上の教会が勝利者として天に凱旋し、白い衣をまとい神の御座のまわりに立てるのは、真の羊飼なるキリストが守り、導いて下さることによるのです。大患難をくぐり抜けた大群衆の姿に驚くことはなかったのです。
「だから」と十五節は続きます。 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
「だから」御前にいるのです。「だから」仕えているのです。昼も夜も!
「だから」と受けているのは「キリストの血で洗って白くされて」です。「だから」御前にいることができるのです。これ以外には罪人の人間が聖い義なる神の御前に出る方法などないのです。
多くの宗教がありますが、一つの真実が明らかにされる時がきます。その日、神の御前に立つことのできるのは、神の御子の十字架の贖いを信じていた者だけということが明らかになるのです。使徒の働き四章十二節、
 『この方以外にはだれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかは、私たちが救われるべき名としては、どのような名も人間に与えられていないからです。』
との真実が示される時が来ます。 
それにもう一つ、「だから仕えている」のです。ヘブル書九章十四節に、
 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によっておささげになったその血はどんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
とあるとおりです。この世界で、神に仕えて生き、完全な聖さへと移された天においても神にお仕えする。それも、昼も夜も、です。
 これが天での聖徒たちの姿なのですが、だいじょうぶですか。天に帰る、この目的を忘れてはおりませんよね。「神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことである」との生き方が、本当にできる場所に、それが出来る者として迎えていただけるのです。神に直接にお仕えできる聖さをいただいて、です。もっとも、天に留まるのは、新天新地の到来を待って地上に用意される神の都に、甦らされた聖徒たちが戻る時までです。

 そんな御国を思う心を、さらに喜び踊らせてくれる続く十五節の後半です。
 そして、御座についておられる方も彼らの上に幕屋を張られるのです。
「彼らの上に幕屋を張る」ということは、十六節に続く神の守り、保護の確かさを語るものですけど、「神とともに住む」ということでもあります。これこそ、預言者たちを通してお示しになって来られた神のみ思いです。それに、人間のあるべき姿でもあります。エゼキエル三九章二七節、 わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
 神と供に住むことは、神を離れた人類が願い求めるべきことでした。神に造られたアダムもエバも、神との交わりの中に生きてました。しかし、罪は神との交わりを断ち切ったのです。人間は、罪を自覚し、聖い神を避けて隠れ、神はこの不従順な人間を裁きとのろいの下におかれたのです。
でも、それっきり、ではなかったのです。「わたしの住まいは彼らとともにあり」となる日を計画し、預言させ、期待させ、待ち望ませて下さったのは神様の方からでした。人間の方はすっかり神を離れ、忘れ、「神とともにある」ことなど望みもせず、むしろ神の裁きを恐れ、死後の世界におびえて生きて来た。
 でも、神が望んでおられるのです。ここにいる一人ひとりが天の御国に帰り行き、神とともに住む者となることを。一つ家族が一つの天幕に住むように、神が私たち全ての上に幕屋を張って下さる。愛する一人子を人の世にお遣わし下さって、天の御国に私たちを連れ戻して下さるお方は、「ともに住む」との豊かな交わりを願っておられるのです。
地上に生きて、神に仕える喜びも忘れ、神とともに住むことなど望みもしない人間に、巨大な幕屋が広げられるこの光景を見せてくれます。私たちを待っている世界がどのようなものかを覚えさせて、神のみもとへの歩みを支え、力づけて下さるのです。
数え切れぬほどの群集とその上に張られる幕屋。乏しい天国のイメージをかきたててくれるこの黙示録です。そこが、私たちが本当に憩うことのできる場所なのです。
 十六節、 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
神のみもとにある聖徒たちの姿です。全く安全なところにおります。
ところで、この十六節の宣言は、これを聞いたヨハネや最初の受取人たちに、何を思い起こさせたことでしょう。荒野の旅路ですね。では、何時の事でしょう。脚注に目を移すと、イザヤ四九章十節とあります。 彼らは飢えず、渇かず、熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、水のわく所に連れて行くからだ。
とあり、そのイメージは捕囚からの約束の地カナンへの帰還の旅です。オアシスに辿り着き、炎熱の世界から解放され、喜びの歓声が聞こえる場面です。
人は、神のみもとに帰り着いて、全ての苦しみ、災いから解放されるのですが、神のみもとにある聖徒たちの全くの安全、安心を言い表すのに、私たちには何と言っても言葉がないのです。それで、地上での代表的な「飢え、渇き、炎熱」を取り上げて、そんなものは一切なし。安全なすばらしいところですよ、と語っているのです。あの地方だから「炎熱」と、出てきますが、私たち流に言えば、「大雨も、洪水も」とでも言い換えましょうか。
 さらに、七章三節と合わせて読めば、地上での予想される「地にも、海にも、木にも害が加えられる」過酷な状況と対象的な、天上での祝福の光景ともなります。
 「なぜなら」と、その訳が語られます。十七節に、
 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。
先ほどのイザヤ書がぴったりと重なってきます。「彼らをあわれむ者が彼らを導き、水のわく所に連れて行くからだ」と。さらに、詩篇二三篇の羊飼いの歌を思い出させますが、違うのは、羊飼いが小羊であるということです。飼う者も飼われる者も羊同士です。
 ずいぶん前に、モンゴル平原の羊飼いの様子をドキュメンタリーで見ました。本当に、羊飼いは群れの一匹一匹を知っているのです。四百頭もの羊がうごめく中で、母親の見つからない小羊を抱いて、その母親のところに連れてゆけるというのです。一緒に生活していて一匹一匹を区別できるのです。でも、羊と人間です。
私たちを命の泉へと導く方は、人となられたイエスご自身です。その血の贖い故に、私たちにいのちを与える事のできるお方です。それも、「御座の正面におられる小羊」と読みますと、贖いの犠牲として差し出した「神の小羊」なるご自身を神の御前に示しつつ、この大群衆を導いておられる事になります。たった一匹の小羊のいのち、ただ一つの贖いの犠牲が齎した恵みの大きさ、その威力を知るのです。
ところで、「飢え、乾き、炎熱がもはやない」と言われても、ピンと来ないのではありませんか。「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」と言われる世界を想像して、多少なりとも退屈なのでは、と心配しませんか。
 しかし、生きている実感に、苦しみ、悲しみはなくてならないものなのでしょうか。上機嫌で遊んでいる赤ちゃんに「生きてることを実感させてやる」とツネッて泣かす親がいますか。「いのち」の実感や喜びは別のものです。「悲しみ、苦しみ」は「いのち」を実感しているのではなくて、「いのち」をおびやかす「死」の方でしょう。
小羊なる牧者は「いのちの泉」に導いて下さると書いてあります。地上では脅かされていたいのちです。父のみもとでは、「飢え、渇き、炎熱」といった、これをおびやかすものは一切なし。
 それに、永遠のいのちは無表情に、無感動に続くものではありません。こうして小羊なるイエスに導かれての、豊かな交わりの中のいのちなのですから。いのちの本当のすばらしさをやっと味わえるのです。地上では、死と悲しみとの混じり合った「いのち」を味わっているのです。それが「生きる」ことと思い込んでいる。しかし、私たちに用意されているものは、かくもすばらしいものなのです。  また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。
この最後のことばは、地上で苦しみ、それも迫害の中にある教会にとっては、本当に「なぐさめ」となることばと聞こえたでしょうね。
「目の涙を」…です。地上の人間の姿を一言でいったら、「涙」となりましょうか。別離の涙、落胆の涙、苦しみの涙、悲しみの涙…エトセトラ。この地上で、涙なし、涙の流されなかった日など、アダムの堕落の日以来、一日たりともなかったでしょうね。
 神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。
「すっかり」です。でも、今、地上にいる私たちです。涙…己の罪、汚れを悔いる涙、世の悲惨さゆえの涙…。この世に生きてます。しかし、その歩みが「すっかりぬぐい取って下さる」お方の前に近づく一歩一歩なのです。この歩みを止められましょうか。天の故郷を目指しての旅路です。天路歴程。この旅路を、全ての涙を尽きることのない「喜び」にかえて下さる方を目指して、全うしたいものです。