礼拝説教要旨(2016.08.21)
絶えず祈りなさい
(エペソ 6:18〜20)

 この8月も第三週を迎えた。第一週に「では、しっかりと立ちなさい」とのパウロの勧めに耳を傾け、今のこの時代においても「悪魔の策略」のあること、より具体的には、富の惑わしが巧妙に迫っていることを覚えた。私たちは、神の全ての武具を身に着けて、しっかりと立つこと、そして、祈りにおいて神を呼ぶこと、祈りによって神に拠り頼むことが、教会の力の源であると心に刻んだ。神の大能の力によって強められる道、それは祈りにあることを学んだ。今朝も、その祈りについてのパウロの勧めに、もう一度目を留めてみたい。

1、「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(18節)腰には「真理の帯」を締め、胸には「正義の胸当て」、足には「平和の福音の備え」、そして「信仰の大盾」を取り、「救いのかぶと」をかぶって、「御霊の与える剣である、神のことば」を受け取ってする戦いは、いかにも勇ましい戦いではなく、心を静めての「祈り」であった。パウロが勧める祈りは、「すべての祈りと願いを用いて」と言うように、神に心を向ける、ありとあらゆる祈りを結集することである。「どんなときにも御霊によって祈りなさい」と。神の助けと導きを求める「祈り」と、具体的に神に求める「願い」など、祈りは様々な形でささげられる。そのような祈りを、真の神に向ってささげる時、私たちは、神が生きて働かれるのを待つことになる。私たちは、単なる願い事を心でつぶやくのではない。願望や期待を思い巡らせるのでもない。神が事を成して下さることを信じて祈るのである。そのような祈りだからこそ、どんなときにも御霊によって祈るように、パウロは勧めている。いついかなる時も、神にこそ、心を向けるようにと。

2、私たち人間は、いつの時代にあっても、またどこの国に住んでいても、本質的には、決して強くはなく、その賢さも、そんなに自慢できるほどのものではない。案外弱くて脆い、愚かな存在であるのは、多くの人が認めるところである。ちょっとしたことで心は騒ぎ、いつも先行きのことで不安に襲われている。だから、何かしら頼るものを求め、神ならぬものにでも、必死にすがろうとする。その時、少しでも自分の力に頼る余地のあるものを求め、自分を誇れるものがあるなら、それに頼るのである。けれども、目に見えるものは、やがて必ず滅び、手に持って、これこそと頼るものは、必ず朽ち果てることを覚えなければならない。目には見えなくても、主イエス・キリストを救い主として遣わして下さった方、生ける真の神だけが、私たちの祈りを聞き、それに答えて下さる方である。パウロは、この神に祈りなさいと命じつつ、自分のことより、周りにいる人々のため、「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」と勧める。祈りは、自分のためによりも、周りにいる人々のためにこそ、神に向かってささげるようにと。「そのためには絶えず目をさましていて」と。自分のためにのみ、心が向きがちなのが私たちである。けれども、祈りにおいては、他の人々のために心を注ぐことが勧められている。

3、キリストの教会とは、実に不思議な所と、改めて思う。一人一人は、弱く、乏しく、取るに足りない者たちの集まりでありながら、神の大能の力によって強められる時、思わぬ力を得て、何者をも恐れない群れとして、しっかりと立つことができるからである。そのような教会だからであろう、パウロは「私のためにも祈ってください」と、祈りを要請している。「私が口を開くとき、語るべきことばが与えれ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように」、そのために祈ってほしいと頼んでいる。祈りの力、すなわち、神の大能の力を知るからこそである。パウロ自身、自分の力をよくよく知っていた。神が、自分の内にあって、生きて働かれることを信じていた。だから、「私のために祈ってください」と願い、もうひと押し、「私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください」と願うのである。教会は、互いに他の人のために祈りを積み重ね、その祈りによって強められる所なのである。世に様々な惑わしがはびこり、「悪魔の策略」が満ちるなら、そのような中でこそ、教会は祈りによって支えられ、導かれることが大事となる。福音が前進するために、「主にあって、その大能の力によって強められなさい」との勧めを聞き、「どんなときにも御霊によって祈りなさい」との勧めに従い、絶えず祈ること、祈りによって、神の御力と神の御業の現れを待つことを導かれたい。

<結び> 使徒パウロは、ほとんどどの手紙においても、最後は、同じように「祈り」を勧めている。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ第一5:16-19)「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ4:6-7)「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。」(コロサイ4:2-4) 大能の神こそ、拠り頼むべき砦だからである。いつも祈るなら、また絶えず祈るなら、いつもいつも、確かに神を仰ぐことになる。自分の弱さや愚かさに打ちのめされることはなく、神の大能を待ち望むことになる。また、自分のことにばかりでなく、周りの人々に目を向け、隣り人のために祈るなら、その祈りを神は聞いて下さる。互いに祈り合うことを通して、私たちは、大いに励まされ、力づけられるのである。互いに他の人のために祈る人々を通して、教会は更に神の御業に触れて、力をいただき、福音の前進のために用いられる。そのような歩みが導かれるよう、絶えず祈ることを導かれたいものである。