礼拝説教要旨(2016.08.14)
神と小羊の怒り
黙示録 6章1〜17節   柴田 敏彦 師

 黙示録六章の主題は「神と小羊の怒り」です。六章最後の十七節で「御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう」との人々の叫ぶ声を耳にし、続く七章では、神の救いに与った大群衆の天上界での姿を見ることになります。この夏は、神の裁きに向う地上の姿と、救いを喜ぶ神の民の姿の両方を、本日と二週間後に、ご一緒に学ぶことになります。象徴的な聖句を二カ所読み比べておきましょう。
 六章十六節、 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。」
 七章十節、 彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にあ   る。」御座にあるお方と小羊なるキリストは同じですが、「怒り」と「救い」といった全く異なるも のを人々は見出すのです。その分れ目こそが「小羊なるキリストの血による贖いを信じる」信仰な のです。

 一節、二節、 また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい」と言うのを私は聞いた。私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。  彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。
雷のような声で「来なさい」と命じるのは、四章七節に登場してきた生き物の一つ、「ししのようであり」と記されていた「第一の生き物」と思われます。
ここでの「来なさい」との声は「雷のような声」ですし、ヨハネに対してではなく、四人の騎士たち向けの指図ですので、荒々しく「出て来い」と訳してもよいでしょう。それに、封印を解くのは小羊ですし、これらの出来事は神の摂理の下に起こるのですから、四人の騎士たちを地上の世界に呼び出す、神の主権を覚えつつ読み進めていくことが大切です。
先ずは、白馬の騎士の登場です。十九章の十一節にも、同じ白い馬が登場します。馬上の騎士は「義をもって裁きをなさる」方ですから、再臨のキリストです。この二節との類似点は、白馬ということだけですから、ここに「勝利者キリストの登場」を読み込むのは無理です。
 騎士の手にある弓は、戦の道具であり、シンボルです。詩篇四六篇九節「主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた」と、弓を折ることは戦いの終結、平和を意味します。逆に、「勝利の上にさらに勝利を得ようと」とは、飽くことなく好戦的で、征服欲にかられた様となります。「冠を与えられ」とは、その戦さを指揮し、勝利を手にすることが神のご支配の下で許可され、行われていることを教えています。弓を手にした白馬の騎士の登場は地上に起こる「戦争」を現していることになるでしょう。

 三節、四節、 小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい」と言うのを聞いた。すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。
 五章では、激しく泣く程に巻き物の封印を解く者の登場を待ち望んだヨハネですが、封印が解かれる毎に、パンドラの箱を開けたかのような悲惨な光景を見るのです。殺戮、飢餓、死病と獣による死の光景が続きます。
 これらは、四章一節で「この後、必ず起こることをあなたに示そう」と告げられていた内容となるものですが、すでにイエス様が福音書で終わりの時の印をお話しになった際に明らかにされたことと同じです。マタイ二四章六節、七節で、 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終りが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震がおこります。
と話され、八節では、これらが「産みの苦しみの初め」に過ぎないと告げられます。ここで四人の騎士の登場との形で語られていることは、「産みの苦しみの初め」の出来事なのです。
主がお話しになった「戦争や戦争のうわさ」は最初の白馬の騎士と繋がります。「民族、国家間の争い」は「平和を奪い、殺し合うようにさせる」赤い馬の騎士の登場に結び付きます。
騎士に与えられる剣は「平和を奪い取る」役目のシンボルです。「平和」という枷を解かれた人間は、野獣のように手当り次第に、まわりのものに牙を剥くのです。赤が殺戮の色とされるのは血の色だからでしょう。
ここには、二節の「冠を与えられ」と同様に、「許された」、「与えられた」とありますが、これらの表現は、摂理によって地上のすべての出来事を神が支配しておられることを教えています。
五節、六節、 小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」
三番目は黒い馬に「量り」の組み合わせです。その意味は、六節から飢饉と分かります。食料を量るのはその貴重さ故です。エゼキエル四章十六節、そして、私に仰せられた。「人の子よ。見よ。わたしはエルサレムで、パンのたくわえをなくしてしまおう。それで彼らはこわごわパンを量って食べ、おびえながら水を量って飲むであろう。」
この声の主は、「四つの生き物の間で」との言葉から、そこに居られる小羊あるいは御座に着かれるお方と思われます。
 「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ」との価格は、通常の十倍ほどとされています。まさに凶作価格です。この飢饉の厳しさの中で、「オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない」との特別な制限が命じられます。麦、ブドウ酒、オリーブ油は、申命記十一章十四節に、 わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。
とあるとおり、普通の収穫物ですが、この三つでは麦だけがやられて、飢饉となるのです。根が深く渇水に強い「ぶどうやオリーブの木」には及ばない程度に飢饉が制限されているとの状況を言っていることになります。すべてが一挙に不足するというのではない。神の側のご配慮というか「手加減」が伺えます。しかし、これらが「産みの苦しみの初め」であり、神の裁きにつながることを見落としてはならないのです。
 七節、八節、 小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。
この八節の光景は死神の行進を連想させませんか。ハデスとは死者が下る所とされています。「死」と名乗る者を乗せた青ざめた馬が通り過ぎて行く。その通り過ぎた後に残る死者たちを、ハデスが拾い集めて飲み込んで行くのです。
八節後半は、「彼らに」とありますから、最初の白馬の騎士から、最後の青ざめた馬の騎士までを纏めて語るものです。脚注の参考箇所の最後、エゼキエル書十四章二一節には、 まことに、神である主はこう仰せられる。人間や獣を断ち滅ぼすために、わたしが剣とききんと悪い獣と疫病との四つのひどい刑罰をエルサレムに送るとき、
とあります。背教のエルサレムに対する裁きの宣告です。その裁きの手段となる「剣、飢饉、悪い獣、疫病」が、この八節にそっくり出て来ます。ご自分の都エルサレムさえも惜しまずに裁かれたお方が、この四つの封印の災いの背後におられたことに気付くべきでありましょう。
ここで初めて、「地上の四分の一を」と語り、ここまでの災いの程度が明らかにされます。この数字の意味は、ことは「部分的に始まった」ということでありましょう。
その手段は、地上に見られる通常の出来事です。堕落後の人間の「戦争と殺し合い」に、罪の下にある自然界の「飢饉と死病」といったものによるのです。ただし、「四分の一」とあるだけで、これらがどのような人々かを語りません。ですから、これらの苦難を信者と不信者の区別無しにだれにでも起こるものと見てよいでしょう。キリストにある者たちもまた地上に生きる限り、これらの出来事に巻き込まれていくのが現実となるのです。人々は、イエス様が「目覚めているように」とお話しになった「産みの苦しみの初め」中に身を置いているのです。

九節、 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。
第五の封印が解かれて、場面は地上から天に移ります。ヨハネが神の祭壇の回りに見たのは殉教者たちの姿でした。この場面を「黙示録の中でもっとも深い意味を持つ、遥かに感動的な光景」と、ある注解者は評しています。
地上からは見えない死の垂れ幕の向こう側が、ここに一瞬、覗けるのです。死に至るまでの忠実さなど無駄死にではなかったのか。天の世界で本当に報われているのか。その答として、「神の言葉と証し」とのために殺された人々に特別にスポットライトを当てて、主のお約束のとおりであったことを見せてくれるのです。
彼らは、たましいの状態で祭壇の下にいるのです。祭壇の下ですから、殉教者たちのたましいにとって安全な場所であると同時に、信仰ゆえに迫害された地上の世界とは異なり、何の制約も受けずに神に仕える事ができるところにいるということでもありましょう。
十節、 彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
この「裁きが遅い、血の復讐はまだなのですか」との叫びに躓きませんか。イエス様は十字架上で「父よ。彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか自分で分からないのです」(ルカ二三章三四節)と執りなされたのです。その弟子のステパノも、石打の刑を受ける中で「主よ。この罪を彼らに負わせないで下さい」(使徒六章六十節)と祈って死の眠りに着くのです。しかるに、天の殉教者たちは、大声で「血の復讐」を叫んでいます。
しかし、自分たちの復讐心の満足の為でないことが「聖なる、真実な主よ」との呼びかけから分かります。神の「聖さ」が侮られ、神の真実さが嘲られているのです。「神のみことばとイエスの証し」ゆえの殉教が、みことばの約束はインチキ、キリスト信者の死も無駄死に、と嘲られていることを背景として読めば良いのです。「裁きの日など、一向に来る様子がない」と地に住む者らは、高を括って生きている。「御名が踏みにじられたままですのに、いつまで放っておかれるのですか」との叫びなのです。神の真実なお約束と、救いの信仰の確かさを、神の名誉にかけて示して下さい、との叫びなのです。
十一節、 すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」と言い渡された。
まずは、白い衣が与えられます。白い衣に関しては、サルデスの教会への約束に「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる」とありました。「わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない」とのお約束もあります。白い衣は、彼らが勝利者として天に凱旋し、永遠のいのちを得ていることの印なのです。
白い衣を与えられ、天に安全な居場所を得た彼らに、「しばらく待て、数が満まで」と主は告げられます。
信仰者の殉教という出来事は、キリストに敵対する者たち、あるいはサタンの軍勢が勝利したかに見えるでしょう。しかし、彼らに安らかな死を恵めなかったのは神のご計画の失敗ではなく、むしろご計画どおりだったということになります。
神は殉教に関する計画をお持ちなのです。こともなげに、「数が満ちるまで」とのことばが告げられます。神はご計画どおりに「慌てることなく」地上の迫害も、殉教の様もご覧になっておられるのです。そうして、「数が満ちるまで」と、裁きの時を計っておられるのです。
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」(ローマ八章三十五節)とあるごとく、私たちへのキリストの愛は、殉教の中でさえ全うされていくものなのです。最後の一人の殉教の死を見届けて、「数が満ちる」そのとき、神は「義をもって裁きをなさる」お方を遣わされることを忘れてはなりません。

十二節から十四節、 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。
ヨハネの視点は再び地上です。「大地震、輝きを落とす太陽、血のような月、地上に落ちる星、消える天、移動する山や島」との天変地異を「見た」と記すのです。この場面の主題は、初めにお話しましたように「御座にあるお方と小羊の怒り」です。「御怒りの大いなる日」の到来です。
 旧約聖書においては、ここに見るような「天変地異」は、「主の恐るべき怒りの日」を語る道具となっています。
 地震による裁きは、民数記十六章三一節のコラ事件を思い起こさせます。「モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ」との出来事です。ヨエル書二章十節では、主の日に「地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う」と告げ、さらに十一節で、「主は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行なう者は力強い。主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう」と記します。
 同様に、イザヤ書十三章十節は、バビロンに対する主の残酷な日に「太陽は日の出から暗く、月も光を放たない」と語るのですし、エゼキエル書三二章七節は、エジプトのパロについての宣告において、「あなたが滅び去るとき、わたしは空をおおい、星を暗くし、太陽を雲で隠し、月に光を放たせない」と告げます。
 出エジプトの際の最後の印は「エジプト全土の三日間の闇」(十章二十二節)でしたし、キリストの十字架の際の三時間に及ぶ暗闇の出来事もありました。
キリストご自身も、マタイ二十四章二九節で、「これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます」と教えます。「苦難」に続いて天変地異があり、キリストの再臨はその後に続くのです。
と、見てきますと、これらの天変地異の現象は「主の恐るべき日」到来の印となるものですから、「怒りの日の到来」を察して人々は恐怖の叫びを上げることになるのです。
十五節、 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間 に隠れ、
世の強者、力ある者を真先に上げて、恐怖におののく様を見せます。結びは、あらゆる奴 隷と自由人となり、全ての人々が叫ぶのです。
十六節、十七節、 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」
やっと、地上での「人の声」が聞かれました。それも、絶望の叫び声が最初となります。四番目までの封印が解かれ、地上には「戦争、殺し合い、飢饉、死病」がその四分の一を殺すとの悲惨な光景が展開する中では、記されなかった人間の声です。最後の瞬間になって、絶望の叫びを聞くのです。「匿ってくれ」は、神の怒りからです。
ここに見る光景は、「御座にある方の御顔と小羊の怒り」を覚えつつも、悔い改めようとしない人間の姿です。自分の立つ世界が揺すぶられ、破滅を予感させる出来事を目にして恐怖に捕われ、「だれがそれに耐えられよう」としつつも、むしろひと思いの死を願う人々の姿を見るのです。終りの日を語るイザヤ二章二十一節に「主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩の割れ目、巌の裂け目に入る」とありました。イエス様もルカ二三章三十節に「そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます」とお話しになっています。

しかし、この叫びを発する時は、すでに遅いのです。最初に戻りましょう。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある」のです。
「御座にある方の御顔と小羊の怒り」に遭遇する前に、「御座にある方と小羊の救い」が私たち罪人のために用意されていたのです。「怒り」か「救い」か、と迫られれば、答えは一つです。
新聖歌二二九番、「千歳の岩よ、わが身を囲め」を賛美しつつ、神の御怒りをその身に受けて下さったお方こそが小羊なるキリストであることを覚えて、救いの神をほめたたえたいとおもいます。