礼拝説教要旨(2016.08.07) =8月15日を迎えるにあたって=
では、しっかりと立ちなさい
(エペソ 6:10〜20)

 主の2016年も、早、半年以上が過ぎて8月を迎えた。月日の流れの速さを思いながら、少し立ち止まって、主の教えを聞き直すことを導かれたい。この国が歩んだ歴史の事実を思い返すこと、また今、どのような状況にあるのかに目を留めること等々、それらは、いつもいつも大事なことと思われる。こうしたことは、この日本という社会にあって、全ての人々の課題であるとともに、キリストの福音の宣教と立証を課題として掲げる教会にとっても、格別な課題である。心してこの季節を過ごしたいと思う。そのような思いを込めて、今朝はパウロの手紙の一端に目を留めることにする。

1、使徒パウロは、その伝道の生涯において、多くの町を巡り、多くの教会の設立に関わり、一人でも多くの人が主イエスをキリストと信じて、罪の赦しを与えられ、神の前に、たましいの救いを喜んで生きる者となるよう、切実な思いをもって福音を宣べ伝えていた。パウロの伝道によって生まれた教会は、それぞれに特徴があって、喜びと感謝をもって思い返す教会があり、また、いつも心配をもって思い返す教会があった。エペソの教会は、パウロにとって、思い入れの強い教会かもしれない。二年半以上、ほぼ三年に渡ってその地に留まり、心を込めて過ごしたからである。ミレトの町でエペソの長老たちを呼んで別れを惜しみ、そしてローマの獄中から手紙を送り、エペソの教会の聖徒たちを心にかける思いは、いつも溢れ出るのであった。教会を惑わす教えが入り込む時が来ても、目をさまして、神のことばに堅く立つように、主イエスを見失わないようにと、心を込めて祈り続けていた。(使徒20:28-35)パウロが実感していたこと、それは、時代の流れ、或いは世の風潮なのか、人々がこの世の富に惑わされてしまうこと、その惑わしが、必ず教会をも巻き込み、教会も曲った教えに引きずられてしまう恐れを感じていたことである。手紙は、先ずイエス・キリストを信じる信仰の中身を伝え、次に、その信仰に生きる生き方を勧めて、最後に励ましを述べ、祈りで締めくくられている。

2、教会は、いつどんな時代にあっても、「主にあって、その大能の力によって強められなさい」と言われるように、神の御力によってのみ支えれる所である。確かに、世にあって、自ら堅く立って、惑わされず、誘惑に立ち向かうことは尊いことである。けれども、パウロが告げるのは、迫り来るものは生易しいものでなく、「悪魔の策略」であるという事実である。だから、それに立ち向かうため、「神のすべての武具を身に着けなさい」と勧める。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」教会は、世にあってどのように目を開き、何を見据えて歩むのか、見据えるべきは、目に見えるものではなく、目に見えない世界にあって、真の神に対抗して止まない、暗やみの世界の支配者である、とパウロは言い切る。イエス・キリストが、十字架の上で悪魔の力を退け、罪に対して勝利された事実は決して揺るがない。けれども、十字架と復活の出来事が、福音として宣べ伝えられる時、必ず「悪魔の策略」は、いつでも、どこででも、執拗に繰り返される。「ですから、邪悪な日に対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい」と、パウロは励まさねばならなかった。(10〜13節)

3、ローマの獄中にあったパウロは、武装した兵士たちを思い浮かべながら、「では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい」と語った。その他、「信仰の大盾」「救いのかぶと」「御霊の与える剣である、神のことば」を身に纏った上で、この兵士たちのすることは、戦いではなく「祈り」であった。「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」そして、「私のためにも祈ってください。・・・鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください」と、パウロは祈りを要請する。神にあって、しっかりと立つ一人一人が、神に祈り、神ご自身が生きて働かれることを祈り求めること、それが教会にとって、最高で最強の力となるからである。悪魔のことを、徒に恐れてはならない。けれども、悪魔の策略を見落としてしまうと、教会はワナにはまる。だから教会は、神のすべての武具を身に着け、「では、しっかりと立ちなさい」と命じられている。「祈る」ように、祈りにおいて神の大能の力を待ち望むように。(14〜20節)

<結び> 福音の宣教と立証が、着実に成されるために、何が必要で、何が大事なのであろうか。私たちのほとんどは、この日本という国にあって神に見出され、滅びからいのちへと救い出された者たちである。イエス・キリストを救い主と信じて、クリスチャンとなった一人一人は、それぞれに置かれている所で、福音の宣教と立証のために用いられるのである。この8月という季節を迎えて、「悪魔の策略」の巧みさ、あるいは、対抗すべき「邪悪な日」に対して、鈍感でいてはいけないと強く思わされている。8月6日、9日、そして15日のことを、心して覚えなければならない。(※本当は、7月26日の事実も覚えなければならない。他にも、忘れてはならないことは、数限りがない位である。)戦争に明け暮れ、身も心も荒廃してしまった中から、ついに新たな始まりを迎えたこの国の歩みが、今また、目先の富を求めるばかりとなっている現実に、私たちは富の惑わしを見抜かねばならない。そして「悪魔の策略」のあることを。私たちは、しっかりと目をさまして、教会が教会として、福音の宣教、また立証のために歩めるよう、祈りを積み上げ、神ご自身が生きて働かれることを待ち望めるように。私たちは、神の武具を身に着けたとしても、それは、祈りのためであることを再認識したい。祈りのためにこそ、しっかり立つことを導かれたい。