パウロが去ったエペソにアポロが来て、イエスのことを人々に語ったが、その教えの中身について、プリスキラとアクラは、彼に、神の道をもっと正確に説き明かした。そのようにしてアポロは、主イエスのことを宣べ伝える器として、一層整えられ、アジヤ州のエペソの町から、次にはアカヤ州のコリントへと渡って行った。彼の雄弁さ、また聖書に通じていた賜物は、コリントの町で大いに用いられていた。その頃パウロは、第三回伝道旅行の最中にあり、陸路でエペソに到着した。先に「神のみこころなら、またあなたのところに帰って来ます」と言った通り、彼は約束を果たすように、この町に戻って来た。パウロにとって、「神のみこころなら」との言葉は、不確かさの表明ではなく、かえって、「神のみこころなら、必ずそのようにする」と、確かな約束が込められていたと考えられる。
1、エペソに着いて、真っ先に気づいたこと、そのことが先ず記されている。幾人かの弟子に出会った時のことである。彼らは、パウロに会う以前に、既にイエスをキリストと信じる者となっていた。先にパウロがエペソに来た時に信仰を持った人々から聞いたのか、或いはアポロがエペソに来て、イエスのことを教え始めた、その頃にイエスを信じるようになったのか、きっかけは不明であるが、イエスを信じる者、弟子として歩んでいた。けれども、パウロは彼らの信仰に、何か足りない部分のあることに気づくのであった。「信じたとき、聖霊を受けましたか」とのパウロの問いに、彼らは「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えた。「どんなバプテスマを受けたのですか」との問いには、「ヨハネのバプテスマです」と答えた。バプテスマのヨハネの教えは、主イエスが公に教え始められる前、多くに人々に受け入れられていた。裁き主である神の前に、罪を悔い改めることを迫られ、それなしに救いはないと知って、人々はこぞって「ヨハネのバプテスマ」を受け、イエス・キリストが来られる前に、心備えをすることになった。彼らの悔い改めて神に従う信仰は確かであったが、イエスをキリストと信じて、救いの喜びを得て歩むことが明確でないことが分かり、パウロは、イエスをキリストと信じることこそ、ヨハネの教えであると告げた。それを聞いた人々は、そろって主イエスの御名によるバプテスマを受けることになった。(1〜5節)
2、みなで十二人ほどいた弟子たちが、主イエスの御名によるバプテスマを受けた時、パウロは彼らの上に手を置いた。すると「聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」(6節)この弟子たちは、既にイエスを信じる信仰に導かれていた。だから「幾人かの弟子」と言われている。けれども、彼らには欠けている部分があった。それは「聖霊を受けたか、受けないままか」ということであった。そして、聖霊を受けた時、確かな変化があった。「異言を語ったり、預言をしたりした」と記される通りの、大きな変化であった。考えられることは、ヨハネのバプテスマを受けて歩む人々は、神の前での悔い改めを強調する教えを守ろうとして、厳格な禁欲的生活を良しとする傾向があったことである。彼らには、イエスを信じた、その信仰の喜びが欠けていたものと思われる。彼らは、聖霊のことを全く知らないわけではなく、はっきりと主イエスを信じてバプテスマを受けることがなく、聖霊を受けて歩むことなど、ほとんど知らなかったのが実情であった。彼らがイエスの名によるバプテスマを喜んで受けたところ、聖霊が彼らに臨んで、彼らを生き生きとした喜びの歩みに導いた。彼らが確かに聖霊を受けたことは、特別なしるしによって明らかとなった。
3、この時の「異言」と「預言」は、紀元一世紀のキリスト教会に特有の「聖霊の賜物」であった。「異言」は、神に向かって話す言葉で、主への賛美や祈りと考えられ、「預言」は、人に向かって話す言葉で、人に教えたり、励ましたり、勧めたりする、教会の交わりの中で大切なものであった。(コリント第一14:1-4)この十二人の弟子たちは、どちらかと言うと、人との交わりを避けていたのであろう。ひたすら真面目に、禁欲的な生活態度に傾いていたのが、この日を境に、聖霊の賜物に満たされて、教会の聖徒の交わりの中で、神を賛美し、神に祈り、互いの励まし合いを喜ぶ者にと、それこそ変えられたのである。パウロは、この出来事をエペソでの注目すべきこととし、後に伝えられるよう願ったのである。聖霊を受けて歩むことの大事さ、また確かさ、素晴らしさを教えたかったと思われる。主イエスと信じて歩む者は、必ず聖霊に満たされ、喜びや感謝に溢れて生きることができる。聖霊が、イエスと共に歩む者を、必ず喜びと感謝に導いて下さるから・・・と。
<結び> 聖霊を受けて歩むことは、一世紀の聖徒たちだけのものではない。パウロが繰り返し教える、「御霊によって歩みなさい」また「御霊に満たされなさい」との勧めには、主イエスを信じただけで、そこから前に進まない人々に向って、信仰において成長しなさい、あなたがたには、もっと喜びの生活があるのだからとの、パウロの大いなる勧めが込められていた。その勧めは、私たちにも届けられている。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁じる律法はありません。」(ガラテヤ5:22-23)この対極にあるのが「肉の行い」であって、私たちは今、どこに立つのか、よくよく考えなければならない。主イエスを信じた時、私たちは、確かに聖霊を受けたのであって、その聖霊に満たされ、導かれて歩むことを喜びとする、そのような者とならせていただきたい。もし私たちが、その証しに生きることがなければ、主イエスを信じることには、何の益もなく、何の損も得もなく、ただ漫然と生きていればそれでよい・・・と人々に告げることになる。聖霊を受けて歩むことは、それほどに大事で、尊いことなのである。主イエスが、私の罪の身代わりとなって十字架で死なれたことを、心から信じる者となり、感謝と喜びをもって、主イエスと共に歩むことが日々導かれるように!!
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