礼拝説教要旨(2016.07.03)
偶像で満ちた町アテネ
(使徒の働き17:16〜34)

 ピリピを去り、テサロニケも追われ、ベレヤでもユダヤ人たちによる騒ぎで町を出ることになったパウロは、主にある兄弟たちの助けによって、船でアテネに逃れることができた。なぜアテネなのか、正確なことは分らないが、テサロニケのユダヤ人たちの執拗さを思うと、陸路よりも船を使って、少しでも遠くへと考えたのかもしれなかった。パウロはアテネで、シラスとテモテが合流するのを待ちながら、その町の様子を知る日々を過ごしていた。彼が一番気になったことは、この町に偶像があふれていたことである。「さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。」(16節)古代ギリシヤの文化や伝統を受け継ぐ町アテネは、その当時も自由都市として栄え、アレオパゴスの評議所(議会)があって、評議員による自治によって町は治められていた。パウロは当初、ふたりの到着を待つだけで、この町で伝道するつもりはなかったようである。

1、ところが、町中に偶像が満ちているのを見て、彼の心は平静でいられなくなった。「そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。」(17節)「町が偶像でいっぱい」との光景は、異教の神々の神殿がそこここにあり、そこに偶像が祀られている様子であるが、当時はどこの町でも、同じような光景が見られた筈である。すなわち、パウロにとって、アテネが特別であったわけでなく、シラスとテモテの到着を待ちつつ、町の様子に目を向けた時、その町の現実に、激しく心を揺さぶられることになったのである。この町でも福音を語ろう、人々の心に語りかけたいと、心が熱く燃え上がるのを抑えることはできなくなった。安息日に会堂に出かけるだけでなく、毎日、広場に出て、人々と論じることになった。エピクロス派やストア派の哲学者たちもいて、議論は白熱したようである。そして、彼の言うことをもっと詳しく聞こうではないかと、興味を示す人々がいたので、アレオパゴスに連れて行かれることになった。パウロが語ったのは「イエスと復活」であったが、熱心に語るパウロを「このおしゃべり」と思ったり、「彼は外国の神々を伝えているらしい」とか、注目されたからである。「あなたの語っているその新しい教えがどんなものか、知らせていただけませんか。・・・私たちは知りたいのです。・・・」(18〜21節)

2、エピクロス派は快楽を最高善として追及し、ストア派は汎神論の立場から、人それぞれの自己充足を追及していたと言われる。彼らは、パウロの言い分を聞いて、自分たちの考えの糧としようとしたのであろう。これに対してパウロは、アテネの人々の宗教心のあつさを認めつつ、人々が拝む「知られない神に」との祭壇を取り上げた。「あなたがたが知らずに拝んでいるもの」、それこそが「天地の造り主なる神」である、と説き明かした。(22〜25節)パウロは、異邦人に語る時はこのように、天地を造られた神がおられることから始めている。(※14:15以下) 天地の初めから説き、また人類の歴史をたどり、今ある現実を見つめ、その上で、このままの生き方でよいのかを問い掛けた。神は決して遠くにおられるのでなく、人が心を開きさえすれば、必ず、すぐそこにおられる。パウロは、当時の人々が知っている詩を引用して語っていた。彼が強調しているのは、真の神は、人間が造った金や銀や石などの像とは全く違うことである。生きて働いておられる神である、それ故に、必ず裁き主として、世を裁かれることを覚えなければならない・・・と。(26〜31節)

3、パウロは、聞いている人々に、「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます」と語って、神が立てて下さった救い主、十字架の死からよみがったキリストのことを語った。キリストは救い主であり、同時に裁き主でもある。死からよみがえった方、キリストがおられると語ったが、人々は「死者の復活のことを聞くと、ある者はあざ笑い、ほかの者たちは、『このことについては、またいつか聞くことにしよう』と言った。」人々の反応は、「復活」については、全く興味を示さず、そんな馬鹿げたことは聞きたくない、またの機会にしようと、冷ややかであった。人間の理性に頼り、自分の考えを正しいとする人々は、「死者の復活」について、それは論外という態度を取るものである。パウロの真剣な話も、彼らには「またいつか・・・」となり、パウロはその場を去って行った。人々の、心の耳が塞がれた状態は、現代社会の様子とも符合する。しかし、主イエスが死からよみがえられたこと、死者の中から復活されたこと、この復活こそ、パウロが宣べ伝えたことであった。(32〜33節)

<結び> このアテネの町での伝道は、余り成果を挙げることがなかったと理解されている。この町に教会が誕生した記録が、どこにもないからである。けれども、パウロの働きは、わずかでも確かな実を結んでいた。「しかし、彼につき従って信仰に入った人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。」(34節)パウロがみことばを語り、キリストを宣べ伝える時、それを聞いて心開く人を、神ご自身が備えておられたからである。幾らか心を痛めながら、パウロはコリントの町へと去って行ったと言われている。人の目には、成功も不成功も、その時はほとんど分らないものである。人が成すべきことは、神の前に、どれだけ忠実であるか、真実であるか、或いは誠実であるかである。一人一人の生き方を神が見ておられる。

 偶像で満ちた町アテネは、今日で言えば、私たちが住む町そのものであろう。この日本の社会は、あらゆる偶像でいっぱいである。ありとあらゆるいかがわしい宗教があふれている。文化伝統と言う言葉で、その価値を認めようとする人々が多くいる。パウロがこの日本社会を見たなら、何と言うであろう。私自身は、いささか鈍感になっているように思う。パウロは「心に憤りを感じた」が、そこまでは感じないでいる自分がいるように思う。他の人々を責めるのでなく、福音を証しする必要を、もっともっと自覚するよう導かれたい。私たちの教会は、この町に置かれ、この町で証しする務めを与えられていることを。この国にあって、真の神を信じて、この神が遣わして下さった救い主、キリストの証し人となるのは、私たち一人一人なのである。十字架のキリストを信じ、そして復活のキリストを心から信じる信仰に生きることができるように!
(※コリント第一15:3-11、テモテ第一1:15-17)